午前中、北京の二環路を建国門方向へ向うバスに乗った。花市のあたりで道路の南側に建つマンションの敷地に一本の桜があり、それがとても大きくて、視界にいきなり飛び込んできたのだった。あっという間に通り過ぎたが、その桜がそこでは現実の世界から離れて漂っているようだと感じたのだった。
風が強かったからなのかも、錯覚なのかもしれない。私は幼いころよく通恵河のそばで遊んでいた。なかでも北京駅の近くの鉄橋で、駅を出発したばかりの鉄道列車が近づいてくると、子供たちは全員といっていいほど歓声をあげたものだ。列車がギーギーと車輪を軋ませる音を聞きながら、万里に広がる大空を行く先頭車両を仰ぎ見て、なんて大きいんだろうと思っていた。
小学校のころ先生が言っていた「人類が列車を発明した時代には、だれもが列車は怪物だと思った」と。私たちの少年時代でもそう思った。鉄橋の下から、大量の真っ黒な鉄の塊、鉄の円盤、鉄の玉、鉄の鎖が必死に動いているようすが、視界の隅まで氾濫しているのだ。この印象のなかに眠る北京と、たったいま見た一本の桜ははっきりとしたコントラストをなして私に迫ってくる。記憶のなかからやって来たようでもあるのだが、ただ瞼に投入された映像にすぎないのかもしれない。
もう長年のことだが、春になれば花を見る。日本に住むようになって、見るのは自然と桜になった。満開の姿を、萎れ散りゆく姿をみる。生命を感じる瞬間とは盛衰に分けられるものではない。桜のみごろは長くても十日間ほどなのだ。
桜の季節に不思議でならないことがある。私が春に北京に帰ってくると日本の桜は満開になり、日本に戻ると桜はそれを待っていたかのように憔悴しはじめることだ。まるで花を咲かせるのに疲れきり、もう咲くのはイヤだといっているような感じなのだ。
上海電視台ドキュメントチャンネルのトーク番組『風言鋒語』のキャスターは李蕾さんという。とてもきれいな名前だ。「蕾の数だけ花が咲く」のだから。
今年から、彼女の番組に準レギュラーとして出演することになっている。時間があれば、こうした雑感を彼女に話してみようと思う。
(写真の中央↑左はゲストのトラベル雑誌の編集長廖敏さん)

posted on 2009-04-19 17:53
amao2008 阅读(1196)
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