僕はいまだかつて人生を一変せしめるような宗教体験を味わったことがない。このことが念仏者ではないものとして、決定的な欠如であることぐらいは、ほか誰よりもこの僕が一番よく知っている。無論、なにも親鸞聖人の語録に書いてあるような大悟徹底を得たいなどというような横着なことを望んでいるわけではない。
言ってみればこの僕はいまだに、世の中と人間が無常・苦・無我にほかならないのだと仏陀が説いた「真実」に直面する機会に恵まれないまま、のらりくらりと楽しく人生をすり抜けてきた半端な人間でしかないかもしれない。
しかし、このことを僕は今、まったく恥ずかしくないと思っている。簡単な話であるが、その根本原因は来日の日常暮らしから拾い上げられ、お寺という異質的空間に移されたところにあったと告白せざるをえない。異質という言葉はきつすぎるが、苦悩せる人々を導くことを使命とするそのお寺の空間が、実に苦悩を体験していないということほどの心の広大さはあると思うからである。
無論、人間だって誰でも己の苦悩があるはずだが、僕の場合、その苦悩を契機として人生の味わいを深めたいと思っている。決して苦悩からの解脱ばかりを願うわけではない。要するに苦悩としての苦悩はあまり存在しないのではないかと、つねづね内省しながら引き返すこともできないままに、この日常の道を歩き続こうとしているのである。
写真は三河別院の暁天講座。動画は講話前のお経を読む御影堂↓ 詳しくは中国語ブログ+

posted on 2008-08-04 18:47
amao2008 阅读(340)
评论(0) 编辑 收藏
网摘收藏