どうやら日本人はむしろ酷暑により亡くなった人に近づけると信じていて、雨が死者の涙だと思っていないようだ。
八月の京都では、毎年、山上で送り火が焚かれる。天を衝く火柱と滾滾とした黒煙が、千年の古都のいたるところで人々をむせかえさせる。苦しいといったらない!日本人は炎が死者の一路平安を助けると信じている。
それは彼らが彼岸を漆黒の世界だと考えていることと関係するのかもしれない。そして、葬式をするとき、日本人の儀式ではどのように光をとりいれるかが重んじられる。
ある葬式に参列したときのことだ。骨と灰になった故人が収められた骨壷を持って遺族が会場に入るとき、突如、天井に色とりどりの火柱が現れた。照明はずっと骨壷を照らし続け、沈痛な思いにさせられた。というのも、このような照明は婚礼の席でもよく見られるからだ。新郎新婦をずっと追っていくあの照明だ。
中国人は「春雨は油のごとく貴く、物を潤し細やかに声なし」とよく言うが、ことこれに関しては日本人を理解するのはなかなかむずかしい。桜の儚さに溜息を漏らすことはあっても、春雨の潤いを讃えようとは思わないからだ。
私はいまだかつて人生を一変せしめるような宗教体験を味わったことがない。このことが念仏者ではないものとして、決定的な欠如であることぐらいは、ほか誰よりも一番よく知っている。無論、なにも親鸞聖人の語録に書いてあるような大悟徹底を得たいなどというような横着なことを望んでいるわけではない。
言ってみればいまだに、世の中と人間が無常・苦・無我にほかならないのだと仏陀が説いた「真実」に直面する機会に恵まれないまま、のらりくらりと楽しく人生をすり抜けてきた半端な人間でしかないかもしれない。
しかし、このことを今、まったく恥ずかしくないと思っている。簡単な話であるが、その根本原因は来日の日常暮らしから拾い上げられ、春の雨という季節的な空間に移されたところにあったと告白せざるをえない。季節的という言葉はきつすぎるが、苦悩せる人々を導くことを使命とするその春の雨が、実に苦悩を体験していないということほどの心の広大さはあると思うからである。少なくとも私の場合はそうである。

posted on 2009-06-01 04:51
amao2008 阅读(1569)
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