|蟇《ひき》
一
「すごいな──」
|博《ひろ》|雅《まさ》は、さきほどから、酒をひと口飲んでは溜め息をつき、感に堪えない声をあげている。
「よい話ではないか」
腕を組んで、ひとりでうなずいている。
場所は、|安《あ》|倍《べの》|晴《せい》|明《めい》の屋敷の縁である。
左右の|直《のう》|衣《し》の|袖《そで》に、太い腕を差し込んで、|胡《あ》|座《ぐら》をかき、博雅はなにごとかしきりと感心しているのであった。
|源 博雅朝臣《みなもとのひろまさのあそん》が、安倍晴明の屋敷を訪れたのは、半刻ほど前であった。
いつもの通りに、腰に太刀を帯び、供の者も連れずに、ふらりと姿を現わしたのだ。|茫《ぼう》|々《ぼう》とした庭を通り、戸口をくぐって、
「おい、いるか、晴明よ」
声をかけた。
すると、
「はい」
しんと静まった屋敷の奥から声があがった。
女の声であった。
中から、しずしずとした足取りで、歳の頃なら、二十三、四ばかりの、髪の長い色白の女が出てきた。みっしりと、重い|唐《から》|衣《ころ》|裳《も》を身にまとった女だった。
重そうな|衣《きぬ》を身にまとっているのに、どこか足取りに重さがなく、たよりなげだ。わずかな風にも飛ばされてしまいそうだった。
「博雅さま──」
女は、赤い唇で博雅の名を口にした。
初めて会うのに、すでに女は博雅の名を知っているらしい。
「先ほどから、|主《あるじ》の晴明がお待ち申しあげております」
女に案内されて、博雅は、その縁に通されたのだった。
そこは、部屋の外側に設けられた、廊下であった。屋根はあるが、雨戸はない。そのまま、雨風に吹きさらしになっている場所だ。
晴明は、そこで、無造作に胡座をかき腕を組んで壁に背をあずけ、庭に眼をやっていた。
野の草が伸び放題になっている庭であった。
そこに案内され、振り返ってみれば、今までそこにいたはずの女が、もう姿を消している。
ふと、後方の部屋の方へ眼をやると、そこに|屏風《びょうぶ》があって、女の姿が描かれている。よく見ると、その女が、今しがたまでそこにいた女に、面影が似ているようであり、似ていないようでもあり──
「ふうむ」
博雅は、その女の姿に見とれていた。
長月──太陰暦の九月の七日。
太陽暦では、八月の上旬である。
博雅の顔は、やや赤みを帯び、眼が光っていた。
軽い興奮が、この男を包んでいるらしかった。
「どうした、博雅?」
庭にやっていた眼を、博雅に向けて、晴明が言った。
博雅は、我に返った顔つきになり、その絵について何か言いたそうに口を開きかけたが、それをやめ、
「いや、晴明よ、実は今日、|清涼殿《せいりょうでん》で実に|趣《おもむき》のある話を耳にしたのでな、それをおまえに言いたくて、やってきたのだ」
本題に入っていた。
「趣のある話?」
「そうだ」
博雅が答える。
「どんな話だ」
「あの|蝉《せみ》|丸《まる》法師どのの話よ」
「おう、あの蝉丸どのか──」
晴明は言った。
晴明も、蝉丸のことは知っている。
昨夜、博雅とともに、顔を合わせている。
盲目の|琵《び》|琶《わ》法師であった。
博雅の琵琶の師ともいうべき人物である。
この博雅、|無《ぶ》|骨《こつ》な武士のくせに、琵琶の道に通じていて、自分でも|弾《ひ》く。
蝉丸のもとに、三年通いつめて、秘曲である|流泉《りゅうせん》、|啄《たく》|木《ぼく》を学んだこともある。
その縁で、昨年、|紫《し》|宸《しん》|殿《でん》から盗まれた|玄象《げんじょう》という琵琶を、異国の鬼から取りもどしたおり、晴明と蝉丸は顔を合わせているのである。
「その蝉丸どのがどうしたのだ」
「いや、蝉丸どのは、まことに、琵琶の名人であられることだな、晴明よ──」
「おう、あの昨年の玄象のことか」
「いやいや、ついひと月ばかり前のことさ──」
「ほう」
「この蝉丸法師どのが、|近江《おうみ》のあるお屋敷に呼ばれてな──」
「琵琶でも弾きにゆかれたか──」
「いや、そうではない。弾くことは弾いたのだがな。そのお屋敷の主というのが法師どのの知りあいでな、その方が、なんぞの用事を造って、蝉丸どのを呼んだのよ」
「ははあ──」
「しかし、屋敷の主どのは、本当はその用事のために、蝉丸どのを呼んだのではなくてな、目的は別のところにあったのだ」
「どんな目的だ?」
「その主どのの知人に|某《なにがし》というのがいて、その男が、実はたいへんに琵琶を|能《よ》くするということでな、その男の琵琶の腕がどれほどのものか、蝉丸どのに聴かせてみようと主がはかったのよ」
「ほほう」
「某というのが、主に頼んだというわけなのだが、しかし、晴明よ。そうはいうても、蝉丸どのは、そのようなことをわざわざされるお方ではない──」
「それで、別の用事で、蝉丸どのを呼んだというわけか──」
「そうよ」
「で──」
「でな。ひと通りの用事が済んだおりにな、ふいに、隣の部屋から琵琶の音が聴こえてきたというわけさ……」
「なるほど、そういうことか」
「ああ。さて、しばらくその琵琶の音に耳を傾けておられた蝉丸どのだが、やがて、おもむろに、横手に置いてあった御自分の琵琶に手を伸ばされてな、それを弾き始めたのよ──」
「ふむ」
「聴きたかったなあ、晴明よ。その時、蝉丸どのが弾いたのが、秘曲の寒桜さ──」
無骨な博雅が、眼をうっとりとさせて、言った。
「で、どうなったのだ?」
晴明が、訊く。
「それがな、蝉丸どのが、琵琶を弾き始めてほどなくすると、隣の部屋から響いていた琵琶の音がふいにやんでしまったのだよ──」
「なるほど」
「どうしたことかと、主が、人に隣の部屋まで様子を見にゆかせると、そこにいたはずの琵琶を弾いていた某という者がいなくなっている。そこへ屋敷の門番の者がやってきて、今しがた、さっきまで琵琶を弾いていた某という男がやってきて、望みは果たしましたと言い残し、家を出て行ったのだという……」
「ほう……」
「皆わけがわからない。部屋へ戻って、どうしたのかと問うても、蝉丸どのは、微笑するだけで答えない。琵琶を弾いていた某の後を追わせて問うても、やはり何も答えない。その理由がわかったのは、しばらく後になってからさ──」
「どんな理由だ?」
「まあ聴けよ、晴明。その蝉丸どのがいよいよ帰ることになった、その前の晚のことだがな──」
「おう」
「その日、主と蝉丸どのが出かけたのが、主の知り合いの、公家の血筋をひくという者の屋敷だったのだが、そこでも似たようなことがおこった」
「公家の血筋をひく者というのが、誰ぞの琵琶を弾く者を呼んで、別室で弾かせたか?」
「そうなのだよ、晴明。その公家の血筋をひいているという者が、数日前のできごとを耳にしていてな、そのような|手《て》|筈《はず》をととのえていたのさ」
「うむ」
「はじめはよもやまの話をしていたのだが、やがて、夜になると、はたして、琵琶の音が聴こえてきた。しかし、蝉丸法師どのは、わずかに耳を傾けるような|仕《し》|種《ぐさ》をしただけで、その琵琶については何も言わない。横に置いてある御自分の琵琶を弾こうともなさらない──」
「ふむ」
「でな、その公家の血筋をひく者というのが、|痺《しび》れをきらせて、蝉丸どのに問うたというわけだな」
「何と問うた?」
「法師どの、この琵琶を何と聴きますか、とそう問うた」
「うむ」
「蝉丸どのが答えて言うには、聴いた通りのものでございますよと──」
「で?」
「公家の血筋をひくという者はなおも問うた。もしここで、法師どのが琵琶をお弾きになれば、なんとなりましょうかとな──」
「───」
「なんともなりますまい──蝉丸どのはそう答えた」
「───」
「琵琶の音はやむかと問うと、やまぬでしょうと蝉丸どのは答える」
「ほほう」
晴明は、興味深そうに眼を光らせた。
「試しに弾いてみてはと、しつこく勧められてな、それでついに蝉丸どのが琵琶を弾いたのだが──」
「どうだった?」
「向こうから聴こえてくる琵琶の音はやまず、さらに三曲ほどを弾き終えて、ようやくその音はやんだ……」
「なるほど」
「納得のいかないのが、蝉丸どのを近江へ呼んだ主どのでな。その家を辞してから、先夜聴いた琵琶と、今夜耳にした琵琶と、どちらの器量が|勝《まさ》っているのかと蝉丸どのに問うたわけだが──」
「うむ」
「蝉丸どのは、微笑して首をふるばかりで答えないのさ。で、そのまま蝉丸どのは帰ってしまわれたというのだが、晴明よ、おぬし、これをどうみる?」
博雅が、訊いてきた。
「なんだ、おれを試すのか、博雅──」
「ああ、いつも|呪《しゅ》だのなんのと、おまえにややこしいことばかり言われてるのでな──」
博雅が、笑みを浮かべている。
「どうみるとは、最初に琵琶を弾いた某と、次に琵琶を弾いた者と、どちらの器量が|優《すぐ》れているか、判じてみせろということか──」
「ま、そういうことだな」
「ひとつ訊くが、博雅よ。蝉丸法師どのほど、琵琶を能く弾く者が、他におると思うか──」
「まずはおるまいよ、晴明──」
ためらわずに博雅が答えた。
「ならば、器量がどちらが上かは、はっきりしているではないか──」
「どっちなんだ」
「琵琶を途中でやめたという最初の男だな──」
「おどろいたな、晴明よ。その通りだよ」
「やはりな」
「やはりだって? どうしてそんなことがわかるんだよ。教えてくれよ──」
「つまり、ふたりとも、蝉丸どのより器量は落ちるのだろう?」
「ああ」
「ならば答は簡単ではないか」
「どう簡単なんだ?」
「最初の男が、蝉丸どのの琵琶を聴いて、琵琶を弾くのをやめたということは、名人の音を聴き、己れの腕を恥じたからであろうさ」
「うん」
「つまりは、蝉丸どのの琵琶がわかるという、それだけの器量は有していたのであろうよ。二番目の男は、蝉丸どのが、どれほどの腕か、それすらもわからず、無遠慮に琵琶を弾き続けていたのだろうな」
「いや、晴明よ、実はまさしく、その通りなのだよ」
「博雅よ、おぬしの方は、どうしてそのことを知ったのだ?」
「いや、蝉丸どのと一緒に、近江へ出かけた者がいてな。その者が、蝉丸どのがほろりとふたりの琵琶のことを|洩《も》らされたのを、帰り道に、耳にしたというわけなのだよ。おれがその者から、清涼殿で話を聴いたのが、今日の昼であったというわけなのさ」
「ふうん」
「な」
博雅は、腕を組んで、晴明を見、
「蝉丸どのは、おくゆかしい方だなあ──」
というわけで、博雅は、しきりとひとりでうなずいては、さっきから、感に堪えない溜め息をついているのである。
「このことを、おまえに話したくてな、今夕、時間がとれたので、とりあえず出かけてきたのさ」
博雅は言った。
「酒でも飲みたいところだが」
「うむ」
博雅が答えると、晴明が小さく首を振った。
「──しかし、そうしたいところだが、今夜はそうもいかなくてな」
「なんだ」
「用事がある。少し前には、出かけねばならなかったのだが、今夜はおぬしが来るだろうということがわかってたんで、待ってたのさ」
「|戻橋《もどりばし》の|式《しき》|神《がみ》が知らせたか?」
「まあ、そういうところであろうよ」
この晴明が、式神を、戻橋の下に|棲《す》まわせて、必要な時に呼び出しては使っているというのは、皆のもっぱらの噂である。
「どうだ、一緒に来ぬか──」
「一緒に?」
「おれが、これから出かけてゆくところにさ──」
「いいのか」
「博雅ならかまわぬさ」
「しかし、何をしにゆくのだ」
「|蟇《ひき》さ」
「蟇?」
「長い話になるので、ゆくのなら、おいおい、その道すがらに、話してやろう」
博雅に向かって言ってはいるのだが、晴明の視線は、博雅にではなく、庭の茫々とした夜の闇に向けられている。
涼しげな眼元をした男だった。
唇はほんのりと|紅《あか》みを帯びており、甘い蜜を含んだように、|微《かす》かな微笑が溜められている。
肌の色が白い。
晴明が、庭から博雅に視線を移した。
「博雅が来るなら、手伝ってもらいたいことの、ひとつやふたつはありそうなのさ」
「ならば、ゆこうか」
「おう」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになったのであった。
二
車に乗った。
|牛《ぎっ》|車《しゃ》である。
車を|牽《ひ》いているのは、黒い大きな牛であった。
長月の夜である。
細い|上弦《じょうげん》の月が、猫の爪のように天にかかっている。
|朱《す》|雀《ざく》|院《いん》の前を抜けて、四条大路を西へ折れたところまでは、博雅はわかっているのだが、それから何度か路を曲がったあたりから、どこを走っているのかわからなくなっている。だいぶあちらこちらと曲がっているようであった。
上弦月のほそほそとした光が、天から降りてきてはいるが、月が細すぎて、あたりは真の闇に近い。
空だけが、ぼうっと、青い光を放っているようである。青い光といっても、地上の闇に比べればの話で、とても光と呼べるほどの空の色ではない。
大気は、ひいやりと湿っぽい。
うそ寒いほどであるのに、肌には汗をかいている。
長月であるから、夜とはいえ、寒いはずはないのだが、車の|簾《すだれ》から入り込んでくる風が、肌にひやひやと感じられるのである。なのに汗をかいている。
博雅には、どちらの感覚が本当であるのかよくわからない。
輪が、ほとほとと土や石を踏んでゆく音が、尻を伝わって届いてくる。
晴明は、さっきから腕を組んで、沈黙したままだ。
──不思議な男よ。
と、博雅は思う。
晴明と共に、晴明の屋敷の外へ出ると、門の前に、この牛車が停まっていたのである。
供の者も誰もいない。
牛車であるのに、牛がいなかった。
誰が、この牛車を牽くのか──。
博雅は、始め、そう思った。
しかし、すぐに、博雅は気がついた。
牛車の|軛《くびき》には、すでに牛が|繋《つな》がれていたのである。
黒々とした、大きな牛であった。
ふいに、そこにそのような大きな牛が出現したのかと、博雅は驚いたが、そうではなかった。牛が、黒い色をしているため、闇に溶けて、一瞬、それとわからなかっただけである。
女がひとりだけいた。
|唐《から》|衣《ころ》|裳《も》をみっしりと身に|纏《まと》った、あの、博雅を出むかえた女であった。
博雅と晴明が牛車に乗り込むと、みしりと牛車が重く|軋《きし》んで、車が動き出したのであった。
その時から、|半《はん》|刻《とき》は過ぎている。
博雅は、前の簾をあげて、外を見た。
青い、|熟《う》れた樹々の葉の匂いが、夜気に溶けて、車の中に入り込んできた。
黒々と盛りあがった牛の背が、ぼんやりと見えている。
その先の闇の中を、唐衣裳を着た女が、先導してゆく。女の身体が、ふわふわと宙に浮いているように見える。
風のようにたよりない。
闇の中に、女の唐衣裳が、燐光を|焚《た》き込んだように、|朧《おぼろ》に光って見えている。
美しい|幽《ゆう》|鬼《き》のようであった。
「なあ、晴明よ」
博雅が、晴明に声をかける。
「なんだ」
「誰かが我等のこの姿を見たら何と思うかな──」
「さて、どうかな」
「都に棲む魔性のものが、まるで、|幽《ゆう》|冥《めい》界にでも帰ろうとしているのかと思うだろうよ」
博雅が言うと、晴明が、細く、唇に微笑を浮かべたようであった。闇であるから、むろん、その微笑は見えぬが、晴明の微笑の気配が、博雅に伝わってきた。
「それが本当であれば、なんとする、博雅よ──」
ふいに、低い声で、晴明が言った。
「おい、|脅《おど》かすなよ、晴明」
「博雅も知っていようが、宮中の噂によれば、わが母は、狐であるそうな──」
そろりと言った。
「お、おい」
「ほれ、博雅、おれが今どのような|貌《かお》をしているのかわかるか──」
博雅には、闇の中で、晴明が、鼻を狐のように|尖《とが》らせているように思えた。
「|嘘《そら》|言《ごと》はよせよ、晴明──」
「はは」
晴明が笑った。
いつもの晴明の声にもどっていた。
ほっと息を吐いてから、
「ばか」
太い声で博雅が言った。
「あやうく|太《た》|刀《ち》に手をかけるところだったぞ」
博雅は怒っている。
「本当か?」
「うん」
率直に、博雅はうなずいた。
「こわいな」
「こわかったのは、おれの方だ」
「そうか」
「おまえも知っているだろう? おれは性格が真面目すぎてな。晴明が|妖《よう》|物《ぶつ》とわかれば、|刃《やいば》を抜いていたかもしれないんだよ」
「ふうん」
「な」
「しかし、妖物であれば、何故、刃を抜く?」
「何故って?」
博雅が返答に困った。
「妖物だからだよ」
「しかし、妖物にもいろいろあろうが」
「うむ」
「人に|禍《わざわ》いを|為《な》すものも、そうでないものもあろう」
「うむ」
博雅は、首をひねって、それから独りでうなずいた。
「しかし、晴明、どうもおれにはそういうところが、実際にありそうなのだよ」
博雅は、真面目な口調で言った。
「うん、あるな」
「だからさ、晴明よ、おまえ、頼むからあんな風におれをからかわないでくれ。おれは時々、冗談がわからない時があってな。本気になってしまうのだよ。おれは晴明が好きなんだ。たとえ、おまえが、妖物であってもだよ。だから、おまえに刃なんか向けたくない。しかし、突然、今のようにされると、どうしていいかわからなくなって、つい、太刀に手がのびてしまいそうになるんだよ──」
「ふうん──」
「だから晴明、おまえが妖物であるにしてもだよ、おれに正体を明かす時にはだな、ゆっくりと、驚かさないようにやってもらいたいんだよ。そうしてくれるんなら、おれは大丈夫だ」
博雅は、|訥《とつ》|々《とつ》と言った。
真剣な口調であった。
「わかったよ、博雅。悪かったな──」
晴明が言った。
しばらくの沈黙があった。
輪が土を踏んでゆく音が、静かに響いていた。
ふいに、口をつぐんでいた博雅が、また闇の中で口を開いた。
「いいか、晴明──」
実直な声であった。
「──たとえ晴明が妖物であっても、この博雅は、晴明の味方だぞ」
低いが、はっきりとした口調であった。
「よい|漢《おとこ》だな、博雅は──」
ぽつんと、晴明がつぶやいた。
また、牛車の音だけになった。
牛車は、なおも、闇のどこかへ向けて、ほとほとと進んでゆく。
すでに西へ向かっているのか、東へ向かっているのか、それもわからなくなっていた。
「なあ、晴明よ、いったいどこへゆこうとしているのだ」
博雅が訊いた。
「おそらく、博雅に話してもわからぬところだ」
「まさか、さっき話をした幽冥界に、本当に向かっているのではあるまいな」
「おおまかに言うならば、そのようなところかもしれぬぞ──」
晴明が言った。
「おい、おい──」
「太刀には手をかけるなよ、博雅。それはもう少し後でよいのだからな。博雅には、博雅の役目があるのだ」
「わからないことを言う男だな。しかし、何をしにゆくかくらいは、教えてもよいだろうが──」
「そうだな」
「何をしにゆくのだ」
「|応《おう》|天《てん》|門《もん》に、四日ほど前に、あやかしが出たのだ」
「なに?」
「聴いてはおらぬか?」
「ああ」
「実は、雨が|洩《も》るのだよ、あの門は──」
突然に、晴明が妙なことを言い出した。
「雨だって?」
「それが、昔からでな。特に、西から風の吹く雨の晚には、必ず雨が洩る。調べてみても、どこも屋根に悪い場所はないのにだ。まあ、そういうことは、よくあるのだがな」
「あやかしの話ではなかったのか?」
「まあ、待てよ、博雅。悪い場所はなくとも、雨が洩ることは洩る。それで、つい先日、そこを修理することになってな、|工《たくみ》のひとりが、門にあがって、色々調べてみたのさ──」
「おう」
「調べているうちに、屋根の下に使ってある板の一枚が、妙な具合になっているのを、その工が見つけたのだ」
「どうなっていた?」
「うむ。その板というのは、一枚に見えているが、実は半分の厚さのものを二枚重ね合わせたものらしいということに気がついたのさ」
「それで?」
「その板をはずして、重ねてあった板を二枚にはがしてみるとな、その板と板との間に、一枚の|札《ふだ》がはさんであった」
「どんな札だ」
「真言の書いてある札だ」
「真言?」
「|孔雀《くじゃく》明王の|呪《ダラニ》だ」
「なんだ、それは?」
「昔から、|天《てん》|竺《じく》では、孔雀は毒虫や毒蛇を食べることで知られている。孔雀明王は、魔霊|調伏《ちょうぶく》の尊神だな」
「───」
「つまり、おそらくは、高野か天台の坊主の誰かが、魔霊を抑えるために、書いてそこに隠し置いたものであろうさ」
「ほう」
「で、その工が、板から|剥《は》がそうとして、その札を破いてしまってな。板をもと通りにした翌日に、西風が吹いて雨が降ったのだが、雨は洩らなかった。しかし、その晚に、あやかしが出たのだ」
「なんと──」
「雨が洩らぬかわりに、あやかしが出るようになってしまったということだな──」
「雨とあやかしと、関係があるのか?」
「まるで関係がないわけではないぞ。札を張って、あやかしを抑えることは、誰でもやることだが、それでは、返し[#「返し」に傍点]がこわい──」
「返し[#「返し」に傍点]?」
「たとえばだ、|呪《しゅ》であやかしを縛るというのは、博雅を縄で動かぬように縛っておくようなものだな」
「おれをか?」
「そうだ。縛られれば、腹が立つだろう?」
「立つとも」
「それが、きつければきついほど、腹が立つであろうが──」
「うむ」
「もし、何かの加減で縄が解けたとしたら?」
「おれを縛った者を、切りにゆくかもしれないよ」
「そこよ、博雅」
「どこだ」
「だからよ、呪であまりにがんじがらめにしておくと、かえってたちのよくないものもいるということだ」
「おれのことを言われてるみたいだな」
「博雅のは、たとえさ。たちがよくないというのは、むろん、博雅のことではないぞ」
「いいから、先を続けてくれ」
「だから、呪をわずかにゆるめておく」
「───」
「堅く縛らずに、少しくらいは自由に動けるようにな」
「ははあ」
しかし、まだ、博雅には|呑《の》み込めない様子であった。
「その少し自由な分だけ、それを封じた場所に、何かささいな害があるのさ。それが、こんどのことで言えば、雨洩りということになって現われていたのだよ」
「ふうん……」
なんとなく呑み込めた風に、博雅はうなずいた。
「で、あやかしの方はどうしたのだ」
「うん。その、翌日の晚なのだがな」
「西風と雨が降った晚だな」
「ああ。工が、雨洩りはどのような具合であるのかと、弟子をふたり連れて、その雨の晚に、応天門まで、様子を見に行ったのだよ。そうしたら、雨は洩ってはおらず、かわりにあやかしを見たというわけなのだ」
「どんなあやかしだ?」
「子供だ」
「子供?」
「そうだ。子供が、逆さに、柱にしがみついていて、工とその弟子を|睨《にら》んだのだという──」
「こう、手足でか──」
「そうさ。膝と、両手でね。門の上に登ろうと、|灯《あか》りを上に向けたら、柱に、それがしがみついていて、こわい眼で下を睨んでいたのだそうだよ」
はあっ、と、上からふたりに白い息を吐きかけてきたのだという。
「へえ」
「その子供は、柱から天井を|這《は》い、ぴょんと六尺以上も空中を飛んだらしい」
「小さい子供か?」
「ああ。子供は、子供でも、顔は、蟇蛙のような|面《つら》をしていたらしいよ──」
「それで、さっき、蟇と?」
「うむ」
「それから、毎晚なのだよ。子供のあやかしが出るようになったのは」
「工は?」
「工は、今は、眠り込んだまま、眼を|覚《さ》まさない。弟子のひとりは、熱が出て昨夜死んでしまった──」
「で、おぬしが呼ばれたか」
「うむ」
「それでどうだったのだ?」
「新しい札を張れば、なんとかはなろうが、それは一時的なものさ。うまくいったとしても、また、雨が洩るのではかなわないからな」
「で──」
「で、色々と調べてみた。あの門にかかわることをあれこれとさ。そうしたら、だいぶ昔に、似たようなもの[#「もの」に傍点]が出たことがあったらしい」
「ふうん」
「でな、その昔に、あの門のところで、子供がひとり死んでいるのがわかった。|図書寮《ずしょりょう》で調べたのだ」
「子供か──」
「うむ」
晴明はつぶやいた。
「色々とややこしいのだな──」
博雅は言った。
言ったその顔を、博雅は左右の闇に巡らせた。
さっきまで、ほとほとと地を踏んでいた輪の感触が、消えていた。
「おい、晴明よ──」
博雅は言った。
「気づいたか」
「気づいたかって、これは、おまえ──」
車の音もしなければ、動いている様子もない。
「博雅よ──」
晴明が、言い聴かせるように言った。
「これから、博雅が見ること、耳にすること|全《すべ》ては、夢と思うことだ。おれだって、おまえにうまく説明してやれる自信がない──」
博雅が簾を開けようと手を伸ばすと、闇の中からすっと晴明の手が伸びてきて、博雅の手を押さえた。
「博雅よ、簾を開けるのはいいが、そこに何を見ても、簾を開けているうちは、決して声をあげるなよ。そうしたら、博雅の身を守ることもできぬばかりか、おれ自身の生命も危うくなる……」
晴明の手が、博雅の手から離れた。
「わかった……」
ごくりと|唾《つば》を呑み込んで、博雅は、簾を持ちあげた。
闇が、あった。
何もない闇であった。
月も、ない。
土の気配も、空気の気配も、そこにはなかった。なのに、黒い牛の背だけは、はっきりと闇の中で見えている。
その先を、ふわりふわりと唐衣裳を舞わせながら先導してゆく女の後ろ姿は、いよいよ美しい燐光を放っているようであった。
──と。
“おう”
と、思わず博雅は胸のうちで声をあげていた。
行く手の闇の中に、ぼうっ、と青白い炎が|点《とも》ったかと思うと、それがふいに大きくなり、鬼の姿になったのである。
見ているうちに、それは、髪ふり乱した女の姿になり、|虚《こ》|空《くう》を睨んで、かつんと歯を鳴らした。なおも見つめようとすると、ぬらりと青い|鱗《うろこ》の蛇と化して、闇の中に姿を消した。さらに見ていれば、闇の中には、無数に、ひしひしとひしめいている眼に見えぬものたちがいる。
見えぬと思っていると、ふいに、それが見えたりする。
人の首がふいに見えたり、髪の毛のようなもの、動物の頭、骨、はらわた、その他わけのわからぬもの。
|文机《ふづくえ》のかたちをしたもの。
くちびる。
異形の鬼。
めだま。
まら。
そそ。
異様なものの中を、牛車はやはりどこへやらと向かっているのである。
小さく持ちあげた簾から、胸のむかつくような風が、そよそよと吹き寄せてくる。
|瘴気《しょうき》であった。
博雅は、簾を下ろした。
顔が青白くなっている。
「見たかよ、博雅……」
晴明が言うと、博雅は、こくん、とうなずいた。
「鬼火を見たよ、晴明──」
博雅は言った。
「そうしたら、それが、鬼の姿になり、次には女になり、最後には蛇になって消えた──」
「そうか──」
静かに晴明が答える。
「なあ、晴明よ。あれは|百鬼夜行《ひゃっきやこう》ではないか」
「その通りさ」
「鬼を見た時には、声をあげるところだった」
「あげないでよかったな」
「あげたらどうなっていた?」
「あやつらにたちまち、この車ごと喰われて、骨も残らぬだろうよ」
「どのようにして、こんな場所に来てしまったのだ」
「色々と方法はあるが、その中でも、簡単な方法を使った」
「どんな方法なんだ」
「|方《かた》|違《たが》えを知っているだろう──」
「知っているさ」
博雅は答えた。
方違えというのは、外出時に、その方向が|天《な》|一《か》|神《がみ》のいる方角であった場合、いったん別の方向へ向かって出発し、目的地とは異なる場所で一泊し、その後に、目的の場所へ向かうことをいう。
|禍《まが》つ|神《かみ》のわざわいを避けるための、|陰陽道《おんみょうどう》の法である。
「都の大路、小路を使って、その方違えに似たことを何度もやるのさ。それを繰り返しているうちに、ここへたどりつくことができる」
「そういうものなのか」
「そういうものなのだ」
晴明は言った。
「で、博雅にひとつ頼みがあるのだが──」
「なんだ、晴明」
「この牛車は、言わばおれの造った|結《けっ》|界《かい》で、めったなものは中には入って来れぬのだが、時おりは、中に入ってくるようなものもいる。考えてみれば、今日は、|己酉《つちのととり》から五日目だ。天一神が、方角を移る日にあたっている。ここに入るのに、その通り道を、五度は横切っているから、そのうちに、誰ぞが見に来るかもしれぬ」
「ここへか──」
「うん」
「脅かすなよ、晴明──」
「脅かしてはいない」
「鬼が来るのか?」
「いや、鬼ではないが、鬼でもあるものだ」
「ならば人か?」
「人ではないが、博雅は人であるから、むこうに特別な意図のない限りは人の姿に見えようし、人の言葉も話そう」
「来たらどうする?」
「おれの姿は見えぬ」
「おれの姿はどうなのだ」
「きちんと、向こうには見えような」
「ならば、おれはどうなるのだ」
「どうにもなりはせぬさ。おれの言う通りにすればよい」
「どうする?」
「おそらく、やってくるのは、|土《つち》の|弟《と》であるから|土《ど》|精《せい》であろうな」
「土の精ということか」
「説明はむつかしいから、そう思ってよい」
「それで?」
「それはおそらく、博雅にこう訊くであろうよ。|人《ひと》である身が|何《なに》|故《ゆえ》かような場所にいるのかとな」
「うむ」
「そう訊かれたら、こう答えればよい」
「どう答えるのだ」
「実は、先日来わたくしは|辛《しん》|気《き》を病んでおりまして、良く効く薬はないかと知人にたずねておりましたところ、本日、辛気の虫によく効くという薬草を知人からいただきました──」
「ふむ」
「それがハシリドコロという草を干したもので、それを|煎《せん》じて、これほどの碗に三杯ほどいただきました。その後は、何やら、心がどうにかなってしまったようで、ここでぼうっとしております──と、そう答えるのだな」
「いいのか、それで」
「いい」
「他のことを訊かれたら?」
「何を言われても、今の同じことを繰り返すだけでよい」
「ほんとうに、それでいいのか?」
「いい」
晴明が言うと、
「わかったよ」
博雅が、素直にうなずいた。
その時、ふいに、外から車を|叩《たた》くものがあった。
「晴明!?」
博雅が声をひそめる。
「言われた通りだぞ」
晴明が言った。
そして、すっと、簾が上に開けられて、そこから、白髪の老人の顔が覗いた。
「もし──」
と、その老人が言った。
「人である身が、何故、かような場所にいなさるのかな」
訊いてきた。
博雅は、あやうく晴明の方に視線が動きそうになるのをこらえ、
「実は、先日来わたくしは辛気を病んでおりまして、良く効く薬はないかと知人にたずねておりましたところ、本日、辛気の虫によく効くという薬草を知人からいただきました……」
晴明に言われたことを、正確に言った。
「ほう……」
老人は、ぎろりと大きなめだまを動かして博雅を見た。
「それがハシリドコロという草を干したもので、それを煎じて、これほどの碗に三杯ほどいただきました。その後は、何やら、心がどうにかなってしまったようで、ここでぼうっとしております──」
「ふうん……」
老人は、首を、少しばかり傾けてみせ、
「ハシリドコロをな──」
博雅を睨む。
「それで、魂がかようなところで遊んでおるのか」
大きなめだまが、さらに動く。
「ところで、|天《な》|一《か》|神《がみ》の通り道を、今日、五度ほど横切っていった者があるらしいのだが、よもや、おまえではあるまいな」
言った老人の口が、かっ、と開いてぬうっと伸びた黄色い歯が見えた。
「ハシリドコロをいただいてから、心がぼうっとなっており、なにがなにやらわかりません……」
博雅は言った。
「ふうん」
老人は唇を尖らせて、ふうっ、と息を博雅に吹きかけた。
土臭い匂いが、博雅の顔に吹きかかってきた。
「ほう、これで飛ばぬのか……」
老人は、小さく歯を見せて、
「よかったな三杯で。四杯飲んだら、もどれぬところじゃ。わが息で飛ばぬのなら、いずれ、一刻もすれば、魂はもどれようさ」
言った。
言った途端に、ふっと老人の姿が消えていた。
あがっていた簾が、もとにもどって、車の中には、博雅と晴明がいるばかりである。
三
「いや、晴明よ、凄いな」
博雅が言った。
「何がだ」
「おまえの言った通りにしたら、帰って行ったよ──」
「それはそうさ」
「あの爺さんが、土精か」
「そのような|神《もの》だ」
「しかし、たいしたものだな、晴明よ」
「喜ぶな。まだ、帰りが残っているからな」
「帰りか──」
博雅が言った。
博雅は、そう言い終えた唇のかたちを残したまま、ふと、耳を澄ませていた。
車が、土や石に触れて、小さく鳴る音が身体にもどってきていたからである。
「おい、晴明──」
博雅が言った。
「博雅にもわかったか」
晴明が、言った。
「わかったさ」
博雅が言う。
そういうやりとりをしている間にも、牛車は前へ進み、いつか、動かなくなっていた。
「どうやら着いたらしい」
晴明が言った。
「着いた?」
「六条大路の西のはずれあたりさ」
「ならば、もどってきたのか」
「もどってはいない。我等はまだ|陰《いん》|態《たい》の|内《うち》だからな」
「陰態だって?」
「この世のもの[#「もの」に傍点]ならぬ世界と思えばよいさ」
「どこだ?」
「|尾張《おわりの》|義《のり》|孝《たか》という者の屋敷の前さ」
「尾張義孝?」
「あの、子供のあやかしの父の名だ──」
「なんだって?」
「いいか、博雅よ。これから外へ出るが、そうしたら、おまえはひと言も口を|利《き》いてはいけないぞ。何かしゃべったら、そのまま生命を落とすことになるかもしれぬ。それができぬのなら、牛車の中で、おれを待っていることだ」
「せっかくここまで来て、それはないよ、晴明。黙っていろというなら、はらわたを犬に|啖《く》われたって、黙っているさ」
本当に、はらわたを犬に啖われながらでも、博雅は黙っていそうであった。
「よし」
「よし」
そうして、博雅と、晴明は、牛車を降りたのだった。
降りると、大きな屋敷の前であった。
中天に、上弦の月が出ていた。
唐衣裳を着た女が、静かに、黒牛の前に立って、ふたりを見ていた。
「行ってくる、|綾《あや》|女《め》──」
晴明が、女に声をかけると、綾女と呼ばれた女が、静かに頭を下げた。
四
まるで、晴明の屋敷の庭のようであった。
雑草が、庭中を埋め尽くしている。
風が吹く度に、さわさわと、草が揺れ、互いにその身を触れ合わせる。
晴明の屋敷と違っているのは、門の内側は庭ばかりで、そこには、家がなにもなかった。わずかに、家があったらしいあたりに、焼け|焦《こ》げて炭になった木が、転がっているだけである。
博雅は、步きながら、驚いていた。
草の中を步くのに、草を分けずともよいのだった。踏んでも草は倒れない。
自分の脚の中で、草が風に揺れているのである。
自分か、草か、どちらかが、空気と同じような存在になってしまっているらしかった。
ゆくうちに、先頭を步いていた晴明が立ち停まった。
その理由が、博雅にはわかった。
前方の暗がりの中に、誰か、人影が見えるのである。
それは、確かに人影であった。
ふたりだ。
男と女であった。
しかし、それをよく見た博雅は、危うく、また声をあげそうになった。
そのふたりとも、首がなかった。
ふたりは、その自分の首を両手に抱えて、さっきから、際限のない会話を繰り返しているのだった。
「くやしや……」
「くやしや……」
ふたりは、その言葉を、何度も何度も繰り返していた。
「あんな|蟇《ひき》を見つけたばかりに──」
「あんな蟇を見つけたばかりに──」
「我等はこんな姿になったのじゃ」
「我等はこんな姿になったのじゃ」
「くやしや……」
「くやしや……」
「竹などで刺さねばのう」
「竹などで刺さねばのう」
ひとりは、男で、もうひとりは、女であった。
細い声であった。
「さすれば、|多《た》|聞《もん》は生きていたろうに」
「さすれば、多聞は生きていたろうに」
腕に抱えた首が、きりきりと、歯を鳴らす。
どうやら、多聞というのが、その首のないふたりの子供であるらしい。
晴明は、すっとふたりの横手に立った。
「それは、いつのことであったろうな」
晴明が訊いた。
「おう」
「おう」
ふたりが、声をあげる。
「それは、今より百年ほども前のことよ」
「それは、清和天皇さまの|御《み》|世《よ》のことよ」
ふたりが言った。
「|貞観《じょうがん》八年、応天門が焼けた年であったな」
晴明が言うと、
「そうよ」
「そうよ」
ふたりが恨めし気に声をあげる。
「ちょうどその年であったわなあ」
「ちょうどその世であったわなあ」
ふたりが手にした首の眼から、さめざめと血の涙があふれ出した。
「何があった?」
晴明が訊いた。
「息子の多聞が──」
「六歳の多聞が──」
「ほれ、そこのところで、一匹の|蟇《ひき》を見つけたのよ」
「大きな、|歳《とし》|経《へ》た、蟇であったわいなあ」
「多聞は、その蟇を、持っていた竹の棒で、地に貫きとめてしもうての」
「わしらが、それを知ったのは、その後であった」
「大きな蟇は、死ななかった」
「貫きとめられたままもがいておった」
「夜になっても」
「翌日の昼になっても、生きていた」
「こわい蟇じゃ」
「蟇とはもともと、あやしの獣ぞ。それで、わしらはどうしようもできなかった」
「夜になると、貫かれたまま、暗い庭で、その蟇が|哭《おめ》くのよ」
「哭く度に、蟇の周囲に、青い炎がめろめろと燃えてよ」
「燃えてよ」
「こわかったな」
「こわかったな」
「蟇が哭いて、青い炎が燃える度に、眠っていた息子の多聞が、熱を出して、苦しそうに|呻《うめ》くのよ」
「殺せば、|祟《たた》るかもしれず」
「竹を抜いて生かせば、自由になった蟇が、さらに|妖《あや》しをなすかもしれず、どうにもならぬところへ──」
「応天門が焼けたのよ」
「応天門が落ちたのよ」
「それが、わしらの仕わざということになった」
「わしらが、|呪《じゅ》|詛《そ》で応天門を焼いたのだと言われた」
「誰かが、庭で刺し貫かれた蟇が、生きて光っているのを見たのだ」
「その人間が、わしらのことを、妖しの術を|為《な》している者がいると、そう言いまわった」
「妖しの術で、応天門を焼いたのだと──」
「申し開きの間もなく、多聞は、熱にうなされて死んでしまった」
「おう」
「おう」
「哀しかったな」
「哀しかったな」
「くやしくてなあ、わしらは、その蟇を殺してよ、火で焼いてしもうたのだった」
「多聞も焼いてしもうたのだった」
「その、残った蟇の灰と、多聞の灰を埋めたのだったな」
「ああ。このくらいの|壺《つぼ》に入れてよ、応天門の焼け落ちたその下に、さらに三尺ほど土を掘って、そこに埋めたのだったな」
「埋めたのだったよ」
「わしらが、捕われて殺されたのが、その三日後じゃ」
「こんな首にされたのが、その三日後じゃ」
「それがわかっていたからな」
「わかっていたから、多聞と蟇を埋めたのよ」
「応天門ある限り、それに祟ってやろうとな」
「はは」
「ひひ」
ふたりが笑ったその時、博雅は、うっかり声をあげていた。
「哀れな……」
低い声であったが、はっきり、そうつぶやいていた。
その途端に、ふたりの声が止まった。
「誰ぞ」
「誰ぞ」
ぎろりと、手の中の首が、凄い視線を博雅に向けた。
その顔が、鬼の顔になっていた。
「逃げるぞ、博雅!」
その時には、博雅は、晴明に腕をつかまれ、強くひかれていた。
「そっちか」
「逃がすな」
声を背に聴きながら、博雅は|疾《はし》った。
ふり返ると、ふたりが追ってくるのが見える。
手にした首は、鬼の形相で、追ってくるふたりの姿は、宙を飛ぶようであった。
生きた心地がしなかった。
「すまぬ、晴明よ」
博雅は言った。太刀に手をかけ、
「ここはおれがなんとでもするから、おまえは逃げてくれ」
「だいじょうぶだ。とにかく牛車に乗れ──」
見れば、牛車が眼の前である。
「来い、博雅」
牛車に乗り込んだ。
牛車が、ごとり、と動き出した。
いつの間にか、周囲は、あの何も見えない闇になっている。
博雅が簾をあげて後方を見ると、様々な鬼どもが、わらわらと追ってくるところであった。
「どうする、晴明よ──」
「こういうこともあろうかと、綾女を連れてきたのだ。心配はいらん」
言って、晴明は、口の中で小さく|呪《しゅ》を唱えた。すると、牛車を先導していた綾女が、ふわっと風に|煽《あお》られたように宙に舞いあがった。
わらわらと、さっそく、鬼たちがその綾女に群れてゆく。|啖《た》べ始めた。
「よし、今のうちだ」
綾女が、鬼どもに|啖《くら》われているその間に、牛車は、逃げ帰ったのだった。
五
博雅は目を覚ました。
晴明の屋敷の中であった。
上から、晴明が博雅の顔を覗き込んでいた。
「綾女どのは?」
起きるなり、博雅は晴明に訊いた。
「そこさ」
晴明が言った。
晴明の視線の方向を眼で追うと、そこに屏風があった。女の姿が描かれていたあの屏風であった。
しかし、その屏風に描かれてあったはずの女の姿が、そこからはきれいに抜け落ちていた。そこだけ、女が立っていたかたちに、絵が消えているのである。
「これが!?」
「綾女だ」
「綾女は、絵であったのか──」
ぽつりと、博雅がつぶやくと、
「そうさ」
晴明が言った。
「ところで、どうだ、博雅よ、まだ出かける元気はあるか」
「おう。どこへゆく」
「応天門さ」
「ゆくとも」
博雅は言った。
その晚のうちに、晴明と博雅は、応天門まで出かけたのであった。
黒々とした闇の中に、さらにその闇が凝ったように、応天門はそびえていた。
晴明の手にした|松《たい》|明《まつ》の灯りが、影を揺らして、かえってもの|凄《すさ》まじい。
「こわいな」
博雅がつぶやいた。
「博雅でもこわいか」
「あたりまえだろう」
「玄象の琵琶の時には、羅城門に登ったくせに」
「あの時だって、こわかったよ」
「ほう」
「こわいというものは、それはしょうがないではないか。しかし、武士なればこわくともゆかねばならぬ。だから登ったのだ」
博雅は言った。
博雅は、手に|鍬《くわ》を持っている。
「このあたりだろう」
博雅はその鍬で、地面を突いた。
「おう」
晴明が答えた。
「よし」
そこを掘った。
すると、果たして、その応天門の三尺下から、ひとつの古い壺がでてきた。
「出たぞ、晴明」
晴明は、手を伸ばして、ずっしりとした、その壺を穴の中から取り出した。
その時には、松明は博雅の手に移っている。
その灯りの中で、古い壺が、影を揺らめかせている。
「開けるぞ」
晴明が言った。
「だいじょうぶなのか」
ごくりと、音をたてて、博雅が|唾《だ》|液《えき》を飲み込んだ。
「まあ、だいじょうぶだろう」
晴明が、その壺の|蓋《ふた》をとると、ふいに、中から、巨大な蟇が飛び出してきた。
晴明が、ひょいと、その大きな蟇をつかまえた。
晴明の手の中で、びくんびくんと、その蟇が、手足を突っ張る。
いやな声で鳴いた。
「人の眼をしているぞ」
博雅が言った。
たしかに、その蟇の眼は、蟇のそれではなく、人のそれであった。
「捨ててしまえ」
「いや、これは、人の気と、歳経た蟇の気が、練り合わされたものだ。めったなことで手に入るものではない」
「どうするのだ」
「いずれ式神として使うかよ──」
晴明は言った。
壺を逆さにすると、その中から、人の骨の灰になったものが、さらさらとこぼれ落ちた。
「では、もどろうか、博雅──」
蟇を手にしたまま、晴明は言った。
蟇は晴明の屋敷の庭に放された。
「これで、もう、あやかしが出ることはあるまいよ」
晴明が言った。
そして、それは、晴明の言った通りになったのであった。
鬼のみちゆき
一
それを、最初に見たのは、|赤《あか》|髪《がみ》の|犬《いぬ》|麻《ま》|呂《ろ》と呼ばれる|盗人《ぬすっと》であった。
犬麻呂は、|歳《とし》の頃ならば五十ばかりの、髪に白いものの混じる男である。元は、|播《はり》|磨《まの》|国《くに》の|西《さい》|雲《うん》|寺《じ》という寺の僧であったが、ある時金に困ることがあって、本尊の|金《きん》|無《む》|垢《く》の如来像を盗み、それがきっかけで盗人となったものである。
盗みに入った家では必ず人を殺してゆくのが、この犬麻呂のやり方であった。人を殺し、誰もいなくなった家からゆっくりと金品を盗むのである。それでも、もの陰に隠れていて、なんとか生命をながらえた者もおり、そういう人間の中に、殺した人間の返り血を浴び、頭から真っ赤になった犬麻呂の姿を見た者がいて、その時から赤髪と呼ばれるようになったものである。
その時、犬麻呂は、息を切らせて、半分走るように步いていた。
|朱《す》|雀《ざく》大路に近い、|梅《うめが》小路の油屋へ盗みに入ったのだが、夜半に小便に起きた子供と母親に、忍び込むところを見られ、持っていた|太《た》|刀《ち》でそのふたりを切り殺し、そのまま何も|盗《と》らずに逃げ出してきたのである。
|喉《のど》を|掻《か》き切る前に、子供が悲鳴をあげ、家の者が眼を覚ましたからであった。
梅小路を東へ走り抜け、朱雀大路を南へ向かって步いているところであった。
──夜。
|亥《い》の|刻《こく》を、半ば過ぎた頃である。
白い色をした、十四夜の月が、天の半ばほどにひっかかっている。
素足であった。
その素足で、ひたひたと、地面に落ちた自分の影を踏んでゆく。
|神《かん》|無《な》|月《づき》の半ばに近い頃だ。
素足で踏む土は冷たかった。
ぼろぼろの|直《ひた》|垂《たれ》の|裾《すそ》を、腰までめくりあげているため、|膝《ひざ》から下が、夜風にさらされたままだ。
霜こそまだ降りてはいないが、五十を越えた犬麻呂には、冷たい風は骨に染みる。
右手には、まだ、血に|濡《ぬ》れた太刀を握っている。
「ちぇ」
犬麻呂はつまらなそうに声をあげた。
女の方を先に刺した時に、胸の骨に刃先があたって、刀がうまく刺さらず、もう一度抜いて刺した。それに時間をとられて、子供を殺すのが遅れたのである。
だいたい、人は、何かが起こった時、すぐには悲鳴をあげないものだ。
そのことを、経験で、犬麻呂は知っている。
ひとりを殺しておいて、その悲鳴をあげられないでいるわずかの|間《ま》のあいだに、もうひとりを殺せばいいのである。
それが、女の方を刺すのに失敗して、二度太刀を動かしている間に、子供の方が悲鳴をあげたのだ。
その喉に、|刃《やいば》を潜らせて、すぐに悲鳴を止めはしたが、その悲鳴は、家中の者の眼を覚まさせるのに充分なものであった。
やはり、五十を過ぎたせいか、昔のような素速い動きはできなくなっている。
「ちぇ」
もう一度つぶやいて、犬麻呂は步をゆるめた。
追って来る者はない。
步きながら、犬麻呂は、直垂の裾を下ろした。
刀を|鞘《さや》におさめようとした時、犬麻呂は、足をそこに止めていた。
足を止めねば、刀が鞘におさめられないからではない。
前方に、妙なものを見たからであった。
青く、光るものだ。
ぼうっとした、|朧《おぼろ》な光──。
天から降りてきた月光が、そこに、青白く|凝《こご》ったように見える。
「|牛《ぎっ》|車《しゃ》か──」
犬麻呂はつぶやいた。
朱雀大路の南──|羅城《らじょう》門の方角に、こちらを向いて、牛車が停まっているのである。
牛はいない。
牛車だけであった。
どうしてこんな所に牛車が停まっているのか──。
そう考えた時、犬麻呂は、思わず息を止めていた。そこに、停まっていると見えた牛車が、動いていたからである。しかも、真っ|直《すぐ》に、犬麻呂の方に向かって進んでくる。
きい
と、小さく音が聴こえた。
車軸の|軋《きし》む音である。
細い、その音が、牛車と共に、闇の中を犬麻呂に向かって近づいてくる。
きい……
きい……
きい……
最初、その牛車が停まっていると見えたのは、その動きが、きわめてゆっくりとしたものであったからである。
犬麻呂の舌の根がこわばった。
どうして、|牽《ひ》くもののない車が前に動くのか。
犬麻呂は、後方ヘ、半步|退《さ》がっていた。
その牛車の左右に、やはり、ぼうっと光るふたつの人影を、犬麻呂は見た。
牛車の右側──犬麻呂から向かって左側に、黒い人影があった。
牛車の左側──犬麻呂から向かって右側に、白い人影があった。
奇妙なことであった。
夜だというのに、その黒い人影も白い人影も、同じくらいにはっきりと見えているのである。どちらの人影も、天から降りてきた月光がその周囲を包んだように、ぼうっと闇に浮きあがっている。
──この世のものではない。
犬麻呂は想った。
──これは、|化生《けしょう》のものに違いない。
そうでなければ、牽くものもなく牛車が動くわけはない。
きい……
きい……
牛車と、ふたつの人影が、宙に浮くように步きながら、ゆっくりと近づいてくる。
人の寝静まった夜に盗みを働くため、犬麻呂は、これまでにも、何度か怪異に出会ったことはあった。
ぼうっと燃える鬼火。
姿は見えぬのに、後方から自分を追ってくる足音。
崩れた門の下で、捨てられた女の|屍《し》|体《たい》から一本ずつ髪を抜いている老婆。
めだまを|失《な》くしたと、夜の道端で泣いている、裸の子供。
しかし、これまでに出会ったどの時よりも、今夜のそれは異様であった。
しかし、犬麻呂は、|肚《はら》のすわった男であった。
相手が、幽鬼にしろ、狐狸の|類《たぐい》にしろ、こちらがむこうを怖れたり、|怯《おび》えたりすれば、かえってよくない結果を生むことはわかっていた。
きい……
きい……
近づいてきた牛車に向かって、犬麻呂は、さっき|退《さ》げた足を、前に踏み出した。
牛車と、犬麻呂との距離が、最初の半分ほどになっていた。
黒い方の人影は、男であった。
黒い直垂を着た武士である。
右の腰に、太刀を差し、悠然とこちらに步を進めてくる。
白い方の人影は、壺装束の女であった。
白い|単《ひと》|衣《え》を着、白い|被《かず》|衣《き》を頭からかぶり、両手で内側からその被衣を支えている。
やはり、しずしずと、宙を舞うように、足を前に運んでいる。
どちらの足音も、車が土を踏む音もしない。
ただ、
きい……
きい……
と、車の軋む音が聴こえるばかりである。
とうとう、その車が眼の前に来た時、犬麻呂は、刀を大きく振りあげていた。
「どこへゆくか?」
声をあげて、低く問うていた。
通力の弱い狐狸の類なら、この一喝で、消えているところである。
返事はなかった。
これまでと同じ速度で、男も、女も、車も、悠々と前に進んでくるばかりである。
「どこへゆくか?」
犬麻呂は、右手で剣を振りあげたまま、|訊《き》いた。
「|内《だい》|裏《り》までゆきます」
女の声が聴こえた。
車の中からであった。
|簾《すだれ》がすっと持ちあがり、そこから、歳の頃なら、二十七、八ばかりの、美しい女の顔がのぞいた。
唇はふっくらとし、眼元は涼し気で、十二単衣──|唐《から》|衣《ぎぬ》をまとっていた。何の香を|焚《た》き込めてあるのか、かぐわしい|匂《にお》いまでが、犬麻呂の鼻に届いてきた。
簾が下がって、すぐに女の顔は見えなくなった。
鼻に、まだ、あのかぐわしい匂いが残っている。
牛車は、もう、すぐ眼の前だった。
ゆらゆらと、牛をつないでもいない車の|軛《くびき》が、もうそこであった。
太刀を振りあげて、そこに足を踏んばっていた犬麻呂は、その軛に、不気味なものが縛りつけてあるのを、その時眼にしていた。
それは、黒々とした、ひと房の、長い女の髪の毛であった。
「あなや」
犬麻呂は、叫んで、大きく横に転げていた。
その犬麻呂の横を、しずしずと、牛車が通り過ぎてゆく。
犬麻呂の鼻に届いていた、甘い匂いが、その時、腐臭に変わっていた。
二
|源 博雅《みなもとのひろまさ》は、その|縁《えん》の板の上に座して、腕を組んでいた。
土御門大路にある、|安《あ》|倍《べの》|晴《せい》|明《めい》の屋敷の縁である。
夕刻だ。
雨が降っている。
細くて柔らかな、そして、冷たい雨であった。
その雨に、|芒《ぼう》ぼうとした、庭全体が濡れている。
ここ三日ほど、降り続いている雨であった。
手入れの、ほとんどされていない庭が、博雅の前に広がっている。
つい、ひと月ほど前までは、甘い芳香を漂わせていた|木《もく》|犀《せい》も、今は花を落としてしまっている。
庭全体に生い繁っていた草も、ひところの、青々とした勢いは、すでになく、色|褪《あ》せて雨に濡れている。草の中には、立ち枯れて色を変じているものもあった。
そういった草の間に、|龍《りん》|胆《どう》や|桔梗《ききょう》の紫が見えている。
どこかに菊が咲いているらしく、雨だというのに、どうかすると、風のかげんでその菊の匂いが届いてくる。
博雅の左側には、朱鞘の太刀が置かれている。
博雅の右側には、長身の、端整な|貌《かお》|立《だ》ちの男が、同じように座して庭を眺めている。
|陰陽師《おんみょうじ》の、安倍晴明である。
博雅が、岩のように、背をきちんと伸ばしているのに対して、晴明の方は、無造作だ。
右膝の上に、右|肘《ひじ》を載せ、その右手の上に|顎《あご》を載せている。
晴明と、博雅の間の|床《ゆか》の上に、素焼きの皿が載っている。
その皿の上に、|茸《きのこ》が盛ってあった。
何種類かの茸が混ざったもので、どれも焼かれて火が通っている。
その皿の|縁《ふち》に、焼いた|味《み》|噌《そ》が載っていて、茸にその味噌を付けて、ふたりはそれを時おりつまんでいるのである。
酒の|肴《さかな》であった。
酒の入った|瓶《へい》|子《し》と、ふたつの杯が、茸の盛られた皿の横に並んでいる。
やや大きめの瓶子の酒は、すでに半分以上が失くなっている。
茸を提げて、いつものように独りで、博雅がぶらりとこの屋敷に姿を見せたのは、一刻ほど前であった。
珍らしく、晴明本人が、博雅を出むかえた。
「おい、おまえ、本当に晴明だろうな」
その時博雅が訊くと、
「あたりまえではないか」
晴明は笑って言った。
「だいたい、いつも、わけのわからん女だとか、|鼠《ねずみ》だとかが出てくるから、晴明の顔をしたものが出て来たからといって、すぐにそれを晴明とは信じられないのだよ」
「晴明だよ」
晴明が答えると、やっと博雅は安心した顔つきになった。
その途端に、晴明が、低く喉を鳴らして微笑した。
「どうした、晴明──」
「博雅よ。おまえ、そこまで疑っておきながら、晴明の顔をしたものが、晴明だと|名《な》|告《の》れば、それを信ずるのか──」
「晴明ではないのか?」
「いつ晴明でないとおれが言った?」
「ああ、わからんではないか、晴明よ──」
博雅は言った。
「いつだったかは、本当におまえが出迎えてくれたことがあったが、その時でさえ、実をいえば、|欺《だま》されたような気もしているのだ。おまえのような、ややこしい話の好きな人間につきあっていては、たまらぬ。とにかくあがるぞ」
そう言って、博雅は勝手にあがり込み、縁の方に步いて行った。
すると、縁の板の上に今、後方に残してきたはずの晴明が、横に寝そべっていた。右の片肘をついて、その右手の上に頬を載せた晴明が、笑いながら博雅を見ていた。
「やはり本物の晴明はここか」
博雅が言った途端に、縁に寝そべっていた晴明の身体が、そのままふわりと風に飛ばされたように、宙に浮きあがり、雨の降っている庭に漂い出た。
漂い出た途端に、晴明の身体はふわりと草の上に落ち、そのまま雨に打たれて見る間にしぼみ始めた。
「おう……」
と博雅が声をあげた時には、草の上に、一枚の、人の形に切り抜かれた紙が、雨に打たれているばかりであった。
「どうだ、博雅」
後方で声がした。
博雅は、後方を振り返った。
「晴明──」
そこに、白い|狩《かり》|衣《ぎぬ》を、ゆったりと身にまとった晴明が立っていた。
女のような、|紅《あか》い唇に、笑みが浮いている。
「やはり、おれが本物だったろう?」
晴明が言った。
「わかるものか」
言って、博雅は、そこに|胡《あ》|座《ぐら》をかいた。
その時、博雅は、持ってきた竹の|籠《かご》を、自分の傍に置いた。
「ほう、茸か」
晴明が、そこに胡座をかいて、籠の中を|覗《のぞ》き込んだ。
「ふたりで、こいつで一杯やろうと思ってきたんだが、持って帰る」
「どうしてだ」
「腹が立ってきた」
「怒るな、博雅。そのかわりに、これはおれが自分で焼いてやろう」
晴明が、籠に手を伸ばした。
「いや、待て、何もおまえが自分で焼くことはない。いつものように、|式《しき》|神《じん》にでもやらせればよいではないか」
「気にするな」
「腹が立ったというのは嘘だ。おまえを困らせてやろうと思っただけだ」
「正直だな、博雅は。いいさ、おれが焼こう」
晴明は、それを持って立ちあがった。
「おい、晴明──」
博雅が声をかけた時には、晴明はもう步き出していた。
茸が来た。
晴明の持った皿の上に、焼かれた茸が載っており、香ばしい匂いが漂っていた。
一方の手の指の間に、瓶子と、ふたつの杯をはさんでぶら下げている。
「すまぬな、晴明」
博雅が恐縮する。
「飲もう」
「飲もう」
そして、ふたりは、雨に濡れた庭を眺めながら、一杯やり始めたのであった。
その時から、ほとんど、会話はない。
「うむ」
「うむ」
と、互いに相手の杯に酒を注ぎ、酒を注がれる時に、低く声をあげるだけである。
庭は、ひっそりと夕刻の雨の中に静まりかえり、草や葉の上に落ちてくる雨の音が、わずかに響いてくるばかりであった。
庭は、晚秋の色であった。
「なあ、晴明よ」
ぽつりと博雅が言った。
「なんだ」
「こうやって、ここからおまえの庭を眺めているとだな、なんだか、最近はこういうのも、これでいいのだなという気がしてきた──」
「ほう?」
「これは、荒れ果てているというよりは、もっと違う、別のもののような気がするな」
博雅は、庭を眺めながら言った。
草が、思うさま、繁った庭であった。
手入れがされてないのだ。放っておかれているのである。そこらの野山の土地を、そのまま切りとって、この庭へ無造作に置いただけのようであった。
「不思議だなあ」
博雅は言った。
「何が不思議だ」
「春も、夏も、秋も、同じように草におおわれているだけの庭のように見えるが、その季節その季節で、違う。季節によって、眼立つ草、眼立たぬ草がある。|萩《はぎ》などは、すでに花が散ってしまって、すぐにはどこにあったのかわからないが、かわりに、それまでどこにあったかわからなかったような、|桔梗《ききょう》や|龍《りん》|胆《どう》が見えている──」
「ふうん」
「だから、違うと言ったのだ。しかし、違うとは言うたが、実を言えば、この庭はまったくいつも変わらぬ同じ庭のような気もするのだよ。だから──」
「不思議ということか」
「うん」
素直に、博雅がうなずいた。
「同じでいるようで、違っている。違っているようで同じだ。しかも、それはどちらかということではなく、この世の有様というのは、それを両方とも生まれつき持っているのではないかという気がしてきた」
「|凄《すご》いな、博雅」
晴明が言った。
「凄い?」
「おまえの言っていることは、|呪《しゅ》の理の根本的なところにかかわってくる話だぞ」
「また呪か」
「うむ」
「晴明、おれはいま、せっかく、何かわかったような気分になっているのだから、ややこしいことを言って、わからなくさせるなよ」
博雅は言って、酒を飲んだ。
珍らしく、晴明は口をつぐんで、博雅を見ていた。
博雅は、干した杯を下に置いた。
ふと、晴明の視線に気づいて、博雅はいったんその視線と眼を合わせ、すぐに、その眼を、また庭に移した。
「なあ、晴明よ、おまえ、あの話を耳にしたか──」
博雅が言った。
「なんだ、あの話とは?」
「赤髪の犬麻呂が捕まった話だよ」
「捕えられたのか?」
「ああ、昨日だ」
「へえ」
「赤髪の犬麻呂が油屋に押し入ったのが四日前の晚さ。押し入った先の、女と子供を殺して、何も盗らずに逃げた。しばらく都を離れているかと思ったら、この都で捕えられた」
「都のどこだ?」
「西京極の辻を、魂の抜けたような顔をしてうろついているところを、捕えられたんだよ。血のこびりついた刀を持ち、着ているものに、返り血をあびたまま步いていたので、そこを捕えられた」
「ほう」
「本当は、二日前に、知らせはあったのだ。犬麻呂らしい男が、血の付いた刀を持ったままうろうろしているとな。まさかと思っていたのだが、それが本当で、実際に捕えられたのが、昨日の朝だ」
「よかったではないか」
「よかったにはよかったのだが、その犬麻呂のやつ、どうも|鬼《もの》に|憑《つ》かれたらしい」
「|鬼《もの》?」
「どうも、油屋に押し入ったあの晚から、何も飲まず喰わずで、うろついていたらしいのだよ。捕えられる時も、抵抗すらできないようなありさまだったらしいよ」
「ふうん。それで、|鬼《もの》に憑かれたというのは?」
「|牢《ろう》の中で、うわごとを言う。ほとんどおまえの呪のような、わけのわからんうわごとだが、それをなんとかつなげてみると、この犬麻呂、油屋から逃げる途中、朱雀大路で|鬼《おに》に出会うたらしい」
「|鬼《おに》か」
「牛車に乗った鬼だ」
博雅は、犬麻呂のうわごとからつなぎ合わせた話を、晴明に語った。
「内裏にゆくと、そう、その女は言ったのだな」
晴明が、博雅に言った。
「そうらしいということさ」
「で、来たのか、内裏に──」
「来なかったよ。そんな話は耳にしていないからな」
「ははあ」
「それで、その牛車だが、消えてしまったのだそうだ」
「消えた?」
「犬麻呂を通り過ぎて、八条大路のあたりまで進んでゆき、そこで消えたらしい」
「犬麻呂が見てたのか?」
「らしいな。朱雀大路を上ってゆく牛車を後方から眺めていると、八条大路にさしかかって、そこで突然に消えたということだ」
「で、犬麻呂は?」
「死んだよ」
「死んだ?」
「ああ。昨夜だ」
「捕えられた日の晚ではないか」
「そうだ。捕えられた時、すでに凄い熱でな。身体が火のように熱かった。それが、夜になって、ますますひどくなり、しまいには、寒い寒いと、がたがた震えながら死んでいったそうだ」
「こわい話だな」
「でな、晴明よ」
「なんだ」
「その牛車の話なんだがな。犬麻呂は、どうも、嘘を言っていたわけではないらしいのだ」
「どうしてだ?」
「実は、その牛車らしいのを見た人間がもうひとりいるのだよ」
「誰が見た?」
「おれの知りあいにね、|藤原成平《ふじわらのなりひら》という|公《く》|家《げ》がいるんだが、この男が女好きでな。あちこちに女をつくっては通っているんだが、その成平が、見たらしいんだよ」
博雅が、声を小さくした。
「ほほう」
「三日前の晚さ」
「三日前というと、犬麻呂が油屋に押し入った翌日の晚だな」
「ああ」
「で──」
「成平がな、通っている女というのが、西京極に住んでいる。そこへ往く途中で、見たらしい」
「うむ」
「見たのは、|亥《い》の刻あたりでな。場所は、朱雀大路と七条大路がぶつかったあたりさ」
博雅が、晴明の方へ、やや身を乗り出している。
「亥の刻というのは、遅いな」
「別の女にあてた歌を作っていて、遅くなったらしい」
「別の女?」
「間違って、同じ夜に、ふたりの女のところへ、その晚にゆくと|文《ふみ》を出してしまったんでな。一方の女のところへ、行けなくなったという文と歌をしたためていたというわけらしい」
「御苦労なことだな」
「で、成平は、車をいそがせて朱雀大路を下って行ったのだが、七条大路を過ぎたところで、その、牛の牽かない牛車に出会ったというんだな──」
博雅は、話し始めた。
最初に気づいたのは、連れていた三人の供の者たちであったという。
ちょうど、雨が降り始めた日の晚で、霧のような細かな雨が、夜の大気の中に満ちていた。月は隠れて見えず、眼を|塞《ふさ》いだような闇夜である。
供の者たちは、それぞれ手に|灯《あか》りをかかげて步いていたのだが、その時、ふと、前方の羅城門の方角から近づいてくるその灯りに気がついたのだという。
ぼうっとした、朧な光。
きい……
きい……
という、車の車軸の軋む音が響いてくる。
灯りを持っているとも思えぬのに、どうしてこのように、光を放っているのか。
近づいてくるのは、牛車であった。
なのに、軛に牛はかかっていない。牛もかかっていないのに、牛車が近づいてくる。
その牛車の左右に、黒い直垂を着た男と、白い単衣を着、白い被衣をかぶった女が立ち、牛車と共に、こちらに向かって步いてくる。
「|面《めん》|妖《よう》な──」
供の者に言われて、簾から外を|覗《のぞ》いた成平はそうつぶやいた。
いよいよ近づいてきた。
「成平さま、これは|妖《あや》|異《し》のものにてあれば、|疾《と》く逃げ参らせたまえ」
供の者が言った時、成平の車を牽いていた牛が、ふいに暴れだした。首を打ち振って、横手へ逃げようとする。
凄い力で、車が横へひねられ、|轅《ながえ》の一本が折れて、車はそこに横倒しになった。そのはずみで、軛が牛の首からはずれ、牛はそのまま走って逃げ出した。
供の者三人のうち、ふたりが、わっと声をあげて牛の後を追って逃げ出した。
横倒しになった車から、成平が|這《は》い出した。
雨で、土が濡れているから泥だらけである。
供の者のひとりが、逃げる時に投げ捨てた|松《たい》|明《まつ》の上に車がかぶさっていて、簾に火が付き、成平の車が炎をあげて、燃え始めた。
ゆるゆると成平の眼前まで進んできた牛車が、そこで停まった。すると、牛車の中から、女の声が響いてきた。
「そこをどいていただけますか」
澄んだ女の声だ。
しかし、成平は動けない。
腰が抜けているのである。
「かような夜更けに、女の身がどこへゆかれるのか?」
成平は、動けぬまま、必死で問うた。
すると、すっと、簾が持ちあがり、そこから女の顔が覗いた。はっとするほど、さえざえとした肌をしていた。女の唇が静かに動いた。
「内裏までゆこうと思うています」
女の、ふっくらとした唇が言った。
成平の鼻に、甘い香の匂いが届いてきた。
あでやかな、唐衣裳を、女は身につけていた。
それが、雨の中で燃えあがった車の炎で見えている。
それでも、成平は動けない。
動こうとして成平は、その時、軛に縛られているものを、見てしまったのだ。
黒々とした、女の長い髪。それが、ひと房、軛に縛りつけてあるのである。
それを眼にして、成平の腰が、もう一度抜けたのだった。
「な、なんと」
声には出したが、恐怖のあまり、成平には、もう何が何だかわからない。女が美しくて、静かに話すという、それがますます怖ろしい。
「七日かかって参上する途中でございます」
女が言うその間、両脇の男と女は黙ったままだ。
それを、横で見ていた供の者は、その時、腰から刀を引き抜いていた。
「やあっ」
眼をつぶって、震えながら車に切りつけていた。
ざくりと簾を裂いて、刀が車の中に潜り込んでいた。
かつん
という音がした。
女が、簾の内側に入り込んできたその刃を、歯で噛み止めたのである。いや、その時は、それはもう女ではなくなっていた。
女は、十二単衣を着たまま、赤い目玉の一匹の青鬼に変じていた。
ごう
と、白い単衣を着て被衣をかぶった女が、|咆《ほ》えた。
みるみるうちに、女が四つん|這《ば》いになった。
女の被衣がはずれた。
女は、白い犬の顔をしていた。
むこう側に立っていた黒い直垂を着ていた男の顔も、黒い犬のそれに変じていた。
たちまち、二頭の犬が、刀で切りつけた男に襲いかかり、男の首を噛み切り、手足をばらばらにしてしまった。
その後に、骨も残さずに、二頭の犬は男の身体を食べ尽くしてしまった。
その時には、手で這って、成平は逃げていた。
尻の方で、男の骨と肉の喰われる、ごりごり、くちゃくちゃ、という音が聴こえた時には、背の毛が逆立った。二頭の犬が、また、もとのように人の姿に立って、牛車の横に並んだ。
ぎい……
と、牛車が動き出した。
這って逃げる成平を追い越し、成平のつい鼻の先、七条大路に出たところで、ふっと、牛車も、男の姿も女の姿も消えた。
三
「それで?」
晴明が、博雅に訊いた。
「成平は、今、自分の屋敷で熱を出して寝ているよ」
博雅は、腕を組みながら言った。
「|瘴気《しょうき》にあてられたのだろうよ」
「瘴気!?」
「うむ。犬麻呂があてられて、死んだのと同じものだな」
「成平も死ぬか?」
「いや、大丈夫だろう。犬麻呂は、人をふたりも殺したばかりで、血まで浴びたばかりだったのだろう?」
「ああ」
「犬麻呂は、特別瘴気にあてられ易い状態だったのだが、成平はそうではなかろうから、五日も寝こめば、元気になる」
晴明は言って、空になっていた杯に、自分で酒をついだ。
「内裏にゆくと、女は言っていたのだな」
「ああ」
「七日かけてゆくと言っていたんだな」
つぶやいて、晴明は、杯を唇に運んだ。
「おもしろいな」
「おもしろいものか。それで、おれは困っているのだ」
「何を困っている?」
「このことを、|帝《みかど》に報告申し上げた方がいいかどうかということをだよ」
「なるほど。それだけのことが、帝の耳に届いていれば、おれの方にも何かしらの話はあろうよ。それがないということは、まだ、帝には話してないのだな」
「うん」
「そうか」
「昨日、成平に呼ばれてね、それで今の話を聴かされたんだよ。どうしたらいいかとね。だから、今のところ、知っているのはおれだけだ」
「どうするのだ?」
「だから、それをおまえに相談しに来たのだよ。盗人が、うわごとに、言ったことなら、帝のお耳にも聴こえているだろうよ。そのことで、おまえがまだ呼ばれてないのなら、帝もそれをさほどは気にとめてないということだ。しかし、同じ|鬼《もの》を、公家のひとりが見て、しかも、供の者がひとり|啖《く》われたとあっては、帝も落ち着いてはおられないだろう」
「何故、まだ、それを帝に話してないのだ」
「いや、実はそのことだが、晴明よ、成平が女好きであることは、もう話したろうが?」
「うむ」
「成平め、かの晚に、帝に嘘を申しあげて女の許へ出かけたのだよ」
「なに?」
「その晚は、|望《もち》|月《づき》の晚でな。その月を眺めながら清涼殿で、ささやかに歌合わせが開かれることになっていたのは知っていようが──」
「ああ」
「月が見えねば、見えぬままに、その見えぬ月のことを歌にしようということで、成平もその歌合わせに出ることになっていたのだ」
「ははあ」
「成平め、そのことをころっと忘れて、女と|逢《おう》|瀬《せ》の文をかわしてしまったのさ」
「女を選んだか──」
「成平め、急の病に伏せって歌合わせには出席できぬことになりましたと、気のきいた歌をひとつふたつ|詠《よ》み、月にみたてた鏡をひとつ、使いの者に持たせて、清涼殿までやったのだよ──」
「ふふん」
「今夜は、雲が出たため、月が隠れてしまいました。これではせっかくの歌合わせができません。それで自分は雲の上まで月を取りに出かけたのです。目的の月はこのように手に入れたのですが、天の風に長いことあたったため、急に熱が出てきてしまいました。自分は出席できませんが、この月をお届けいたします──と、そんな内容の歌らしい」
「それで、女のところへ出かけ、鬼に出会うたということだな」
「だから、わかるだろう、晴明よ。鬼のことを告げれば、嘘をついていたことがわかってしまう。それで、成平は、おれに相談したのだよ」
「なるほど……」
「晴明よ、どうしたらいい?」
博雅が訊いた。
「そうだな。今は何とも言えぬ。この眼で、その牛車を見てみぬことにはな」
「見る? 牛車をか?」
「明日の晚あたりにどうかな」
「明日の晚に、見られるのか?」
「おそらく、朱雀大路と、三条大路の辻で、亥の刻あたりに見ることができよう」
「どうしてそんなことが言えるのだ」
「だからよ、七日かけて、その女は、内裏までゆくと言っていたのだろう」
「ああ」
「最初の晚が、八条大路、その次の晚が、七条大路であったのだろうが」
「───」
「その牛車の消えたのがだよ」
「ああ」
「その間、牛車は、朱雀大路を、内裏の方へ向かって登ってきているのであろうが」
「うん」
「ならば、誰かが偶然にでも見たのでなければ、はっきりとは言えないのだが、三日目は、六条大路。四日目は五条大路。五日目の今夜は、四条大路ということになるだろうな」
「なるほど、そういうことか。しかし、晴明よ、それなら、何故、その牛車は、一日で、朱雀大路を羅城門から大内裏の朱雀門まで、ひと息に登ってしまわないのだ?」
「まあ、先方にも、色々と都合があるんだろうよ」
「ということは晴明、放っておくと、明後日──つまり、七日目の晚には、大内裏の朱雀門の前まで、牛車は来てしまうということだな」
「そういうことになろうかよ」
晴明が答えると、博雅は、前にも増して、力を込め、腕を組んで庭を見つめた。
「困ったことになった」
博雅は、濃さを増してゆく庭の闇を見つめながらつぶやいた。
「だから、明日、見にゆこうではないか」
「牛車をか」
「亥の刻になる前に、朱雀大路と三条大路の辻あたりで待ち伏せればよかろう」
「なんとかなるのか、それで──」
「見てからだ。よほど、|性《た》|質《ち》の悪いものであれば、帝にわけを話して、とりあえず、|方《かた》|違《たが》えをしてもらうか、特別な|呪《ず》|法《ほう》を用意せねばならぬだろう」
「そちらはおぬしの持ち分だからまかせるとして、実は、晴明よ、もうひとつ相談にのってもらいたいことがあるのだ」
「何だ」
「判じてもらいたいものがある」
「判ずる?」
「実は、女から|文《ふみ》──歌をもろうた」
「歌!? おまえが女から歌をもろうたかよ、博雅」
「ああ。しかし、もろうたはいいが、おれは歌の方はさっぱりなのだよ」
「歌はだめか」
「おまえの呪と同じで、ややこしい」
博雅が言った。
晴明は微笑しただけであった。
いかつい|体《たい》|躯《く》をした博雅は、無骨そうに、いかにも歌などは手におえぬといった風情で座している。しかし、いったん琵琶を弾ずるとなると、この男がと思えるほどの音色を、その|撥《ばち》で|弾《はじ》き出すのである。
「歌の|雅《みやび》は、どうもわからん」
博雅はつぶやいた。
「で、いつもろうた」
「おう。それははっきり覚えているよ。四日前の午後さ。その時は、帝が写経なされた『|般《はん》|若《にゃ》経』を納めるため、東寺へ向かおうとしていたところでな。清涼殿を辞して、|徒《か》|步《ち》にて、承明門をくぐろうとした時であったよ。|紫《し》|辰《しん》|殿《でん》の前の桜の陰から、ふいに、歳の頃なら七つ八つばかりの|女童《めのわらわ》が駆けてきてな、おれに、いきなり文を握らせるのだよ。その文には、なんと晴明よ、|龍《りん》|胆《どう》の花までがそえてあった……」
「ほうほう」
晴明は楽しそうに微笑しながら博雅を見ている。博雅は、晴明に見られているのを意識して、ことさら無骨そうな表情をしているようであった。
「それで、その文と花に眼をやって、顔をあげると、もうその女童はどこにもいなかったよ」
「ふむ」
「まさか、ひとりでそんな女童があんな場所にいるわけはないから、誰ぞのやんごとない姫君に連れられて、内裏に登っていたのだろうがな。その時、もろうた文を開いてみれば、そこに歌がしたためてあったというわけだよ」
「まあ、その歌というのを見せてみろよ」
晴明が言うと、博雅は、|懐《ふところ》からその文を取り出した。
それを晴明に渡した。
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かけたるはうしとこそ思へ たまさかに車は何の心をかやる
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それには、女の文字でそう書かれてあった。
「ははあ、なるほど」
晴明はその歌を眺めながらうなずいた。
「なんだ、何がなるほどなんだ」
「おまえ、どこぞの女につれなくせなんだか──」
「つれなく? そんな覚えはないよ。女につれなくされたことはあっても、こちらからつれなくしたことなどはない」
顔を赤くして、博雅は言った。
「晴明よ、教えてくれ、それには何と書いてあるのだ」
「だから見た通りさ」
「それがわからないから訊いているのだよ。おれは、こういうことにはうとくてな。ややこしい歌をやりとりして、互いの気持を伝えあうというような雅なまねはできないのだよ。好きなら好きと、手を握ったり握られたりする方が、よほどわかり易い。な、晴明、もったいぶらずに、おれのためにその歌を判じてみてくれよ──」
博雅の顔は、ますます赤くなっている。
おもしろそうに晴明は博雅を眺め、
「これはな、つれない男に、恨めしく思っていますという、女の歌だ──」
「驚いたな、晴明よ、どうしてそんなことがわかるのだ」
「たまにしか自分のもとに通ってこない男に対して、怒っているようだな、この女は──」
「ようするに、|拗《す》ねてみせているのか」
「まあ、そうだな」
「しかし、どうしてそういうことがわかる」
「まあ、聴けよ。男が女のもとへ通うのに使うのは車だ。人がその車を牽く場合もあろうが、まあ、この場合は牛だな。牛車だ。車に牛を掛けて、牛に車を牽かせるわけだ」
「それがどうした」
「だから、その車に牛を掛けることにひっかけて、わたしが心に“|懸《か》け”ているのは“|憂《う》し”ですよと、男に対して言っているのだよ」
「ほほう」
博雅の声が大きくなった。
「丁寧にも、そのひっかけた言葉の謎解きも、この歌はしていてくれてるではないか──」
「謎解き?」
「ああ。“車は何の心をかやる”と書いてある。ここまでされて、“うし”が、牛にひっかけた“憂し”であると解けねば──」
そこまで言って、晴明は言葉を切った。
「解けねば何なのだ、晴明──」
「いや、解けぬところがいかにも博雅らしいということさ」
「おれを馬鹿にしているのか」
「いや、おれは、そういう博雅が好きだと言うているのさ。博雅は博雅でよい──」
「ううむ」
半分は納得しかねている様子で、博雅は|唸《うな》るようにうなずいた。
「で、博雅よ、おまえ、この歌に覚えはないのか」
「ない」
はっきりと、博雅は言った。
「ないがしかし、気になっている」
「何がだ」
「いや、おまえの判じたものを聴かされているうちに、気になってきたのだ。この歌をもろうたのが、あの、牛のない牛車が出た日であったからな」
「そうだな」
「何やら関係がありそうな、なさそうな──」
「わからぬが、もしかすると、文にそえてあったという、龍胆が、何やらいわくを秘めていそうだな」
「龍胆が──」
「とにかく、明日の晚に、見にゆくことにしよう。その牛車をな」
「ゆくか」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
四
雲が、動いている。
黒い雲であった。
その雲の中に、月が出たり、入ったりしている。
天を動いている風が|疾《はや》いのだ。
夜空の半分以上は、黒い雲におおわれていた。ところどころに雲の割れ目があり、そこから覗く夜空は、驚くほど透明で、星が光っていた。
雲が動き、月を飲み込み、また、月を吐き出す。
月が、天空を駆けているように見える。
月が、雲の陰から現われると、晴明と博雅が身を隠している|欅《けやき》の濃い影を、地上にくっきりと落とした。
亥の刻になったばかりである。
晴明と博雅は、その欅の陰に身をひそめて待っていた。
朱雀大路と三条大路とが、交わったあたりで、羅城門の方向に、少し朱雀大路を下った右側である。
朱雀院の高い塀を、背にするかたちで、晴明と博雅は、通りの方を眺めている。
博雅は、左腰に、太刀を下げている。
鹿革の|沓《かの》|靴《くつ》をはき、|袍《ほう》を着て、左手には弓さえ握っている。|戦《いくさ》装束である。
しかし、晴明は、普段着にしている白い、動き易い狩衣を、さらりと身に|纏《まと》っているだけだ。
太刀さえ、身に帯びてはいない。
あたりは静かであった。
人影はどこにもなく、見えている屋敷や塀の影は黒ぐろとしているばかりで、|灯《あか》りはおろか、鼠のたてる物音さえ聴こえない。
聴こえてくるのは、頭上で風に騒ぐ、欅の葉音ばかりである。
足元には、落ちたばかりの欅の葉が、風にさらさらと流れてゆく。
「本当に来るのかなあ、晴明よ」
博雅が言った。
「来るだろうよ」
晴明が答えた。
「昔からな、路と路とが交わる場所、辻は魔性の通り路なのだ。牛車が、そこから現われ、そこから消えてゆくとしても、不思議はない」
「ふうん」
と博雅が答え、ふたりはまた黙った。
時だけが過ぎてゆく。
そこへ──
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きい……
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低く音が聴こえた。
小さく、車の車軸が軋む音であった。
晴明の肩に触れていた博雅の身体が、堅くなった。
博雅が、左手で、太刀の鞘を握り締めたのだ。
「来た」
晴明が言った。
果たして、羅城門の方角から、ぼうっと青白く光るものが近づいてくる。
牛車であった。
牽く牛もないのに、その牛車が前に進んでくる。
その左右には、話の通りに、男と女が並んで、牛車と共に|步《あゆ》んでくる。