李白の「将進酒」では、「古来聖賢皆寂寞」と言う一節がある。確かに、聖賢はほとんど寂しかったと思う、何故なら、古来の聖賢たちはあんまり高すぎる所に登ったので、目に見えるのは白雲と青空のみで、普通の人間とはもう話し合えないところに居たわけだ。その点から見れば、聖賢らは寂寞になったのも当たり前のことだと思う。「高き処 寒さに勝てず」とは、そのようなことだ。勿論、上記の寂しさは、普通な人なら試しても無理だ。偉すぎるな寂寞は、我々の平凡な人間とは果てしないギャップがある。

平凡な人間だから、上記の寂しさは僕らと関係ないと思う、或いは現段階の僕と関係ない。でも、偉そうではないけど、寂しさは、いつでも僕らに従っている、まるで影の見たいものだ。心のどこか、魂のどこか、知らずに見えない糸のような寂しさに囲まれる。実は、寂しさがずっとそこに存在しているわけだ、生まれから別れまで、消えたことがない。人間は、どんなに親しい家族でも、夫婦でも、親友でも、距離がある。心の上では、誰でも自分しか知っていないことがある、空間の上では、多くの人にとって、一生の半分以上の時間は1人っぽちでいる。1人では必ず寂しいとも言えないけど、皆一緒にいるより、元々存在している寂しさに気づきやすい。

多くの人と一緒にいるなら、寂しくないか。いや、そんなことないと思う。考え、趣味など共通点がなければ、一層寂しくなるかもしれない。「人が多い場合で黙って、笑顔も寂しい」という歌が聞こえたことがあるだろう。そういうこと、僕は何度も経験している。宴会でも、集会でも、ある人はぺらぺらで喋られるけど、僕は大体黙っている。笑っても、実はその話題がちっとも面白くないと思った。話に下手だと思われるが、友達と一緒にいるなら、自然にぺらぺらになる。


寂しさは、辛いときもあるし、美しい時もある。雨の深夜、真黒のなかに寝たままで、雨滴が窓に叩く音を聞きながら夢中に行くのは、実に素敵なことだと思う。