一休禅師に、霊魂が歌を詠めばこうであろうかと思わせる一首がある。「死にはせぬ どこへも行かぬ
ここに居(お)る たづねはするな ものは言わぬぞ」
一休禅师有一首诗,让人想到灵魂若是咏唱的话想必就是这样的吧。“不去死,不去任何地方,就在这里,不去问,也不去说”。
「一休道歌」(禅文化研究所編?刊)に収められている。胸のなかのようでもあり、天空の高みのようでもあり、神さまや仏さまがどこにおられるかは分からない。分からなくて、差しあたり困ることもない
这首诗被收录在‘一休道歌’(禅文化研究所编刊)中。深似人心,高似天空,但神和佛到底在哪里却是不知道的。因为不知道,所以现在也并没有困惑。
と思いきや、神社界は困っているらしい。インターネット上での参拝や祈願を受け付ける神社が増えたのを受け、神社本庁は「ネット上に神霊は存在しない」として全国の神社に自粛要請の通知を出した
才这么想着,神社界好象就有困扰了。因为在网络上接受人们参拜和祝愿的神社也越来越多,神社本厅以‘网络上是没有神灵存在’为理由向全国的神社发出了要他们慎重自己行为的通知。
「神霊は神社という場所や空間に鎮座するもので、信仰本来の形が崩れかねない」と本庁は言う。ネット参拝を導入している神社からは、「神社に親しみをもってもらえ、遠方の人の助けにもなるのに…」と当惑の声も聞こえる
本厅说“因为神灵是坐镇在神社这种地方和空间的,所以(他们的行为)可能使信仰本来的形式被毁”。从将参拜导入网络的神社,也可以听到迷惑的声音“这可以使人们更亲近神社,能帮助远方的人们……”。
祈る心はどこにいても通じると言われれば、「容認派」に気持ちが傾く。清らかな華やぎをたたえた神社独特の空気に触れるすがすがしさを思えば、いかにも御利益がありそうで「自粛派」に傾く。ことの是非はむずかしい
如果说祝愿的心无论通过何种方式都是相通的话,那么我们的想法是倾向于‘容忍派’的。但想到接触到被赞为纯净,庄严的神社中独特的气氛,心灵也能变得清澈,无论如何都是倾向于对自身有益的‘自肃派’。孰是孰非,实难判断。
八百万(やおよろず)の神々も「ものは言わぬぞ」の組だが、なかには多弁な方もおられよう。ま、ほどほどであればね…ぐらいはささやいてくれる神さまも、いそうな気がする。
许多的神虽然也加入‘不说’的行列,但那当中饶舌的人也有吧。感觉也有神会嘟囔着说“唉,如果是适度的话,那也就算了……”。
posted on 2006-12-21 18:27
临波 阅读(202)
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