はじめに

日野富子(14401496)室町幕府第八代将軍足利義政の正室であり、第九代将軍足利義尚の母である。富子が幼少の義尚を将軍に立てて、政治の舞台に登場することになった。実権を握った富子は天下の富を集め、大小名に高利貸し、米商売を行うための米倉建設などの運用をはかり、京都七つ口に関所を作って関銭を徴収し、彼女の財力によって室町幕府が運営されていた。これは「日本の歴史」第七回目の授業で勉強した時、初めて気付いたのは室町時代の日本は夫婦別姓の時代ではなかったかという疑問であった。

現在の日本において、夫婦同姓が夫婦一体感を高める見方で人々の意識を支配している。さらに、夫婦同姓の強制が日本のよき伝統だ、との思い込みも強い傾向がある。

しかし、歴史的に見れば氏名は各時代の体制と深く結びついている。武士階級における夫婦の姓は、源頼朝の妻が北条政子であったように違っていたし、江戸時代の庶民は、名字を持っていたが公称を禁じられていた。こうしたことからしても夫婦同姓を日本の伝統とするのは一種の思い込みに過ぎない。

 

歴史

日本人の名前で最も古い記録は『魏志倭人伝』の邪馬台国の女王卑弥呼である。卑弥呼の意がヒメミコであれヒメコであれ、魏への使節となったのは「大夫難升米」で、地位と名前が記されているが、現在の氏にあたるものはまだ見当たらない。

その後、日本で氏の記録がはじめて登場するのは『古事記』である。四一五年に「天の下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき」とある。諸々の父系氏族に氏姓を与えて、朝廷に奉仕する職務の継承を命じたのだ。氏の継承は兄から弟へが原則で、父から子へは補助原則だった。

八十氏族以外の人々の氏はどうだったのか。大和朝廷の支配が及ばない地方の人々、奴婢、それに大陸渡来人は“無姓”だったという。ところが、一般市民は諸々の姓を持っていた。これを百(諸々の)姓という。また、奈良時代の戸籍には、すべての公民に氏が記載されているので、大化の改新後は、百姓にも氏があったと考えていいだろう。

『古事記』や『日本書紀』に見られる初期の貴族の女性には、接尾語としての「姫」「媛」「比売」がついており、奈良時代になると「郎女」「娘」が増加する。「子」は小野妹子や蘇我馬子のようにはじめは男性につけられていたが、やがて女性のものとなり平安時代には大流行する。

鎌倉時代の武士の女性は、男性と同じように所領を相続している。鎌倉幕府法の『御成敗式目』には女性の所領に関する条文がいくつかあり、親の所領のみならず夫からも譲られていることが分かる。

例えば、所領を女子に譲った後不和になった場合、親はそれを取り返すことができる(一八条)、夫から所領を譲られて後離別された場合、妻側に落ち度がなければ返さなくてもいい(二一条)、しかし夫から所領を譲られた後家が再婚した場合は、亡夫の子に所領を与えなくてはならない(二四条)などとされている。

しかし、鎌倉後期ころから女性の所領は一期分(本人一代限り)となり、やがて相続権を喪失するようになる。結婚に際して女性が持っていくものは諸道具と持参金くらいとなり、経済力は急低下する。

江戸時代は宗門人別帳や系図、家譜、墓碑、その他各種の記録などで女性の名前は、中性とは比較にならないほど大量に知ることができる。

近代、女性の名前の特徴は、たま、はつ、いと、しず、ふくといった二音節で平仮名といえよう。上流から庶民にいたるまで基本的には変わらず、貴族や将軍家、大名などではそれを、初姫のように漢字にして姫をつけたり、お玉の方としたり、公家風に静子であったりする。

女はいずれ嫁に行くものという考えがあり、婚家先で家風などに合わせて名前を変えられることもあった。

また下女の名は、おなべ(女衆の意)、おさん(ご飯を炊く)、おきよ(勝手もとの意)など、本名とは関係なく通名として呼ぶ場合もあった。

明治維新によって成立した政府は、西欧諸国のような近代国家の建設を目指して急ピッチ出さまざまな政策を実施した。封建的身分制度の廃止に伴う苗字の呼称もその一つだった。

一八七〇年、太政官は以後平民にも苗字を許すと布告し、庶民の苗字名乗りを認めた。しかしこれは強制では無かったので、相変わらず苗字を名乗ろうとしなかったり、時には苗字を勝手に変更したりと混乱があった。そこで七二年には華族より平民にいたるまで今後は苗字を変えてはいけないと改称を禁じ、さらに七五年には、以後必ず苗字を名乗らなくてはいけない、もし無い場合は新たに苗字を設けるように苗字が強制されるようになった。

妻の氏について、明治政府は一八七五年五月、石川県から「婦人は結婚しても一生その生家の苗字を称すべきか又は夫家の苗字を唱えるべきか」と言う質問が内務省に出された。こうした地方からの疑問が多かったためか、同年一一月内務省は「婦女が他家に嫁した後も終身実家の苗字を称すべきかまたは婦女は総て夫の身分に従うはずのものだから婿養子と同一に見做し夫家の苗字を称させるべきか」という伺いを太政官に出している。

これに対し、太政官は一八七六年二月の法制局議案の「妻は夫の身分に従うから夫の姓を名乗るというのは姓氏と身分とを混合するもの」という意見を参考しながら、同年三月 「婦女は結婚してもなお所生の氏を用うべきこと、ただし夫の家を相続したる上は夫家の氏を称すべきこと」と指令した。

「妻は夫の身分に従う」年ながら「所生の氏」(生家の氏)を名乗るとしたのは、姓氏はあくまで出自をあらわすという前近代の伝統が踏襲されていると見ることが記出る。しかし、「夫の家を相続したる上は夫家の氏を称す」とした点は大きな変化があり、江戸時代は妻が夫の「家」を相続して戸主になることはほとんど認められていなかった。

近代的民法典の制定作業は一八七〇年からはじめられたが、一八七八年にできた民法草案では「婦は其夫の姓を用ふべし」と規定し、夫婦同氏の原則を示している。ここで注意を引くのは「夫の姓」となっていることである。他の民法草案はフランス民法が下敷き担っているが、これに該当する規定はフランス民法には無く、他方、当時のドイツ、イタリア法では妻が夫の氏を称すとなっており、それらも参考にされたものと思える。しかし一方政府は同じ時期に「所生の氏」を称するよう指令しており、現実と草案にはかなりの隔たりが存在した。

ついでに一八八八年にできた第一草案では「婦其夫の氏を称し、其身分に従ふときは之を普通婚姻と云ふ」と規定しており、この段階では夫婦を中心とした家族が考えられていたものと思われる。

一八九八年ようやく明治民法は公布・施行された。ここで、「妻は婚姻に因りて夫の家に入る」(七八八条)と定められ、結婚とは夫の「家」に入ることであると言う原則が明示され、さらに「戸主及び家族は其家の氏を称す」(七四六条)と規定され、氏は「家」の称号であることが明らかにされた。

日本における夫婦同姓の歴史は、一八九八年明治民法ができてからで、その間わずか一〇八年という日本の浅いものである。