かわいい奴だ!お前を愛さなかったら、この魂が地獄に堕ちてもいい!お前を愛さないようになったら、この世界はふたたび混沌の状態にもどるだろう。
――――シェイクスピア「オセロー」
時は今から153年前、安政2年(1855)年5月、五台山竹林寺の修行僧純信が37歳の時である。仏に仕える身でありながら、純信の心に恋が芽生えた。鋳掛け屋の「お馬」という娘(当時17歳)に、禁断の愛を抱いた。娘に贈るため播磨屋橋の小間物屋でかんざしを買ったのだ
その一節が現在、巷に残っている歌となった。
♪土佐の高知のはりまや橋で
坊さんかんざし買うをみた
ヨサコイ ヨサコイ♪
空が暗くなるまで、純信がどういう気持ちで待っていたのか、当時、坊さんの恋は厳しく禁じられた時代で、仏教では「不邪淫戒」と言われて、色恋沙汰はご法度。坊さんがかんざしを買うことが、人にばれたら、間違いなく追放され、重い罪を負わなければならなかった。
しかし、このかんざしは、お馬さんの髪に挿してあったなら、きっと似合うはずだ。お馬さんがきっと喜ぶのだろうと、純信は己の立場より、真っ先に考えていたのは、お馬さんの喜びだっただろう。まさしく純愛そのものであろう。結果は予想できたとおり、いたたまれなくなった二人は駆け落ちしたが捕らえられ、純信は国外へ(現愛媛県川之江)、お馬は仁淀川以西に追放された結末で終わった。
追放の地で修業を重ねた純信は、後悔はしていないと、言い張れるのだろうか。恋の盲目を恨んではいなかったのだろうか、自分の選択が間違ったと意識しながら、意地張って認めなかったのだろうか。それとも、変わることなく、お馬さんのことを愛し続けていたのだろうか、お馬が須崎で結婚したことを知っていたのだろうか。結婚したお馬さんは、純信のことをどうおもっていたのだろうか。
人の気持ちというものは、つねに変化していくのだから、当人にきいても、その場によって、答えも違ってくるはずだ。一方では、世間話というものは、いつも自分に都合の良いように、解説し伝わる傾向もある。こうなると、当人の答えであれ、世間のうわさであれ、果たしてどう捉えるべきか、じっくり考える必要がありそうだが、それこそ自分の人生観・価値観によるものではないだろうか。
当時の純信に、悔いはないのなら、それでいい。後になって、己の価値観が変わり、後悔したかもしれないが、その時、すでに時は流れていったのだから、それはそれでいいのではないだろうか。
お前を愛さなかったら、この魂が地獄に堕ちてもいい!愛を描く天才――シェイクスピアは「オセロー」でオセローの口を通して世間に伝えようとしたのは、本当になんだろう?と不思議に思い始めた。
posted on 2008-07-14 01:06
龍二 阅读(173)
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