第三編 日本の歴史
第一章 古代国家の起源
第一節 文化の始まり
人類が地球上に現れたのは、今から約200万年から100万年前の、地質学でいう洪積世初期のことであった。洪積世は氷河時代ともいわれ、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期とが交合におとずれ、そのたびに海面の上昇と下降が繰り返された。この時期には、現在では絶滅した動物が生息し、人類は石を打ちかいてつくった打製石器を使用し、狩猟・漁労や採集などの生活を営んだ。考古学ではこの段階を旧石器時代と呼んでいる。
日本列島は、洪積世(氷河)の時代にはまだアジア大陸と陸つづきであった。その間、東洋象や、それよりおくれてナウマン象・大角鹿・マンモスなどの大形動物が往来していた。人類の集団も、これらの動物の群れを追って移住してきたと考えられる。日本における洪積世の化石人骨は、愛知県牛川、静岡県浜北、大分県聖岳、沖縄県港川などの石灰岩の地層から発見されている。
先土器文化: 1949(昭和24)年、群馬県岩宿の関東ローム層の中で打製石器が確認されたのをきっかけに、全国各地の洪積世の地層から各種の石器が発見され、洪積世の時代の人々の生活の様子が知られるようになった。この時期の文化は打製石器を使用するだけで、まだ土器を製作・使用していないところから先土器文化と呼ばれている。
石器は、はじめ河原石などを打ちかいて作られた打撃用の粗末な楕円形石器(握槌・握斧)であったが、次第に主として切断機能を持つナイフ形石器が現われ、そののち刺突用の尖頭器など、用途に応じて分化した道具が作られるようになった。またこの時代の末期には、尖頭器の一種としての石槍や細石器などの小形の剥片石器が作られ、狩猟方法に大きな進歩をもたらした。
縄文文化の成立: 今から約1万年前になると、気候は温暖となり、氷河が溶け始めて海面が上昇し、地殻の変動も加わって、日本の国土は大陸から切り離された。こうして完新世(この時期を地質学では沖積世と呼んでいる)のはじめに日本列島が形成され、気候も今日とほぼ同じようになった。
このような自然環境の変化に応じて狩猟方法も変化し、中小の動物を捕らえるために、石槍だけでなく、新しい狩猟具である弓矢が考えだされた。石器も、打製のものだけでなく、新たに磨製石器が製作・使用されはじめた。また獲得した食料を貯蔵・調理する道具として土器が作られ、食生活を豊かなものにした。このころの土器は様々な形や文様を持ち、低温で焼かれた厚手の黒褐色のもので、縄文土器と呼ばれている。
このような弓矢・磨製石器・土器などの使用を特徴とする縄文文化は、新石器文化に属し、その遺跡は北海道から沖縄まで広く分布している。縄文時代の遺跡から出土する人骨を見ると、そのころの人類は現代の日本人とはいくつかの点で違いが見られる。しかし、本質的には同一の系統につらなっており、日本人の祖型ともいえるものがこの時代に形成されたと考えられる。その後、色々な時期に渡来した周辺の人々との混血や環境の変化によって次第に今日の日本人が出来あがったのであろう。
縄文時代の生活と文化: 縄文時代の社会の発展は、のちの時代と比較すれば極めてゆるやかではあるが着実に進んだ。住居は地面を掘りこんで作った竪穴住居で、1戸に数人から10人くらいの家族が住み、これらがいくつか集まって一つの集落を形成していた。集落は一般に湧き水が近くにある台地上に営まれ、しばしば中央の広場を囲むように、円形ないし半円形に住居が配置されていた。海岸近くの集落では、貝塚が規則正しく環状または馬蹄形に形成されている。これらのことは、当時の集落が一定の規律のもとに作られ、人々が集団で労働していた可能性を示すものである。当時の基本的な生活圏は、集落とその周辺で狩猟・採集活動を行う狭いものであったが、各地でそれぞれ孤立していたのではなく、かなり遠方の集団との交易も行われていた。
この時代には食料獲得の技術も進歩し、人々は弓矢や石槍を用いて動物を捕らえた。水辺では貝をとったり、丸木舟を使い、釣り針や銛・やすなどの骨角器を用いて魚をとった。また栗や胡桃などの木の実を採集したり、打製石斧で山芋などの球根類を掘り出し、石皿やすり石でこれらを加工して食べていた。人々は集団で力を合わせて働き、収穫物はみんなで公平に分け合った。このような生活の中では、個人的な富や権利の発生を促がすような余剰生産物の蓄積は不可能であり、集団の統率者はいても、貧富の差や階級の区別はなかったと思われる。このことは、住居の規模や構造に大きな違いが見られないことや、埋葬が共同墓地で行われ、個人の富を示す副葬品が伴わないことからもうかがわれる。
この時代の動物や植物資源の獲得は自然条件に左右されることが多く、生産力は低く、人々は不安で厳しい生活を送っていたと考えられる。人々は、あらゆる自然物や自然現象に霊威を認め、呪術によって災いを避け、豊かな収穫を祈った。呪術的な習俗を示す遺物としては、女性をかたどったものが多い土偶、特殊な文様をほどにした土版、そして石棒が見られる。手足を折り曲げて埋葬する屈葬が広く行われたのは、死霊をおそれたためと思われる。また縄文中期以降の人骨には抜歯をしたものが見られるが、これは集団の統制を厳しくし、成人になるものに通過儀礼の一つとして強制的に行わせたものであろう。
第二節 農耕社会の成立
弥生文化の成立: 日本列島で数千年にわたって縄文文化が続いているが、中国大陸情勢の影響を受けて、紀元前3世紀ころ、九州北部に新しい文化が起こり、農耕社会が成立した。新文化は、水稲農業と金属器の使用を特徴とし、またこれまでの縄文土器に変わって、弥生土器と呼ばれる薄手で赤褐色の土器が使用された。この文化を弥生文化と呼び、紀元3世紀ころまで続いた。
弥生文化には、ほぼ同時にもたらされた青銅器と鉄器のほか、織物・石庖丁・磨製片刃石斧・貯蔵施設(高床倉庫)など、中国に起源を持つ要素が多く見られるが、磨製石鏃、青銅製の武器などには、朝鮮半島南部の系統を引くと見られる要素もある。さらに西日本の弥生前期の人骨には、縄文人に比べて背丈が高く、朝鮮半島の人々の身長に近いものがあることから見ると、弥生文化は、半島南部で形成された文化の影響のもとに九州北部でまず成立し、それが全国広がったものと考えられる。
農耕社会の発展: 水稲農業は、弥生時代前期には、稲作に適した気候条件の西日本一帯に急速に伝わった。やがて中期以降には東日本や東北地方でも稲作が普及したが、関東や東北の一部でも弥生時代前期の稲作が確認されている。稲作の伝播の過程で寒冷地に耐える品種が生み出された。農耕は、採集経済と異なって、人々が自然に働きかけることによって食料を計画的に生産できるので、生活の安定度は著しく高まった。
水稲農業は、前期には低湿地での小規模な湿田の比重が高く、開田や耕作には木の鍬や鋤きが用いられ、籾は直播された。収穫には石庖丁などで穂首を摘み取り、籾摺には木臼と竪杵などが用いられた。後期になると鉄製の刃先をつけた鍬の使用が拡大して、水路の造成などの能率を高め、開田が困難であった地域の耕地の開拓が進み、西日本の一部では乾田も出現した。水路と畦とが整然と配置された静岡県登呂遺跡の水田は、東日本でも農業が着実に発展したことを物語っている。弥生土器は、貯蔵用の壷、煮炊き用の甕、食物を盛り付ける高つきや鉢など、用途に応じた形のものが作られた。木の伐採や加工の道具として各種の磨製石斧が使われたが、後期には斧・刀子などの鉄製工具が普及し、石器は消滅した。
このころの墓としては、九州北部で甕棺墓・箱式石棺墓・支石墓などがつくられ、その他の地域では木棺墓などが知られている。また近畿地方を中心に、九州から東日本に至る各地で、土壙(墓穴)のまわりに方形の溝をめぐらした方形周溝墓がつくられた。一方、有力な首長の出現を背景として、弥生後期には西日本で大きな墳丘墓が作られるようになった。埋葬の方法としては、棺の中に遺体の手足を伸ばしたまま葬る伸展葬が普通であった。
小国の分立: 中国の史書『漢書』地理志によると、紀元前1世紀ごろ、倭人の社会は100余国に分かれ、定期的に楽浪郡に使いを送っていたという。また『後漢書』東夷伝などには、紀元57年に倭の奴の国王の使者が、後漢の光武帝に朝貢して印綬を受けたことが記されている。奴の国は今の福岡市付近にあった小国の一つと考えられ、このころ、九州北部を中心とする西日本各地に小国が分立し、中国と交渉をもっていたことが知られる。
九州北部にある弥生中期の共同墓地では、特定の甕棺墓から中国製の銅鏡・銅剣・銅鉾など多くの副葬品が発見されており、この地方に大陸と交通し、豊かな財宝を所持する特権的な首長が出現したことを物語っている。『後漢書』や、金印に見られる「王」は、このような小国の首長を指すのであろう。こうした時期に、西日本では大陸製の青銅器を模倣した国産の銅剣・銅鉾・銅戈・銅鐸などが作られた。
邪馬台国: 中国大陸では220年に後漢がほろび、かわって魏・呉・蜀が並び立つ三国時代となった。『魏志』倭人伝によると、倭では2世紀後半に大きな戦乱が起こったが、3世紀になって邪馬台国の女王卑弥呼を建てることによっておさまり、卑弥呼を中心として30ばかりの小国の統合体が生まれたという。卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡などを受け取った。卑弥呼は呪術に優れ、宗教的権威を背景にして国内に君臨したという。
邪馬台国では大人・下戸など、身分秩序があり、政治組織や租税の制も整えられつつあったようである。卑弥呼は、対立していた狗奴の国との抗争の決着がつかぬまま3世紀半ばに死んだ。その後、ついで男王がたったが国内が混乱し、卑弥呼の宗女である壱与が王となることで、ようやく平和になったと伝えているが、これは、男子による王権世襲制がまだ確立していなかったことを示している。倭の女王(壱与)が266年に洛陽へ遣使した記録を最後に、以後約150年間、倭に関する記録は中国の歴史書から姿を消すが、この間に日本では大和政権による国土の統一が進められていった。
第三節 大和政権と古墳文化
3世紀末から4世紀の初めにかけて、瀬戸内海沿岸から畿内にかけて古墳が発生した。古墳は弥生時代の共同墓地とは異なり、特定の個人の埋葬のために作られた大きな墳丘を持つ墓で、古墳の発生は、弥生時代の小国間の抗争、地域的統合の中から、強大な権利を持つ支配者が出現したことを物語っている。
そのころ中国では、三国時代のあとをうけて晋が国内を統一した。しかしその国力は弱く、4世紀初めには、北方の匈奴をはじめとする諸民族の侵入を受けて南に移り、華北では五胡十六国時代が始まった。そのため周辺諸民族に対する中国の支配力が弱まり、東アジアの諸民族は次々と中国の支配を離れて独立し、国家形成へと進んでいった。中国東北部から起こった高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼした。半島南部では、韓族が馬韓・辰韓・弁韓という小国の連合を作っていたが、4世紀の中ごろ、馬韓から百済、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成した。
この間の倭人の社会については、文献でははっきりとしたことがわからない。しかし、おそらく東アジアのこのような情勢を背景にして、大きな古墳の集中している大和を中心とした畿内の豪族たちが、連合して大和政権を作り、4世紀半ばすぎには、九州北部から中部地方にかけての地域にその勢力を及ぼしていったものと考えられる。
古墳文化の発展: 古墳の構造が盛んに行われた4世紀から6世紀ころまでを古墳時代という。前期の古墳は、単独で水田や集落を見渡す丘陵上にきずかれた。その多くは一定の規則性をもって作られた前方後円墳という特異な外形を持ち、墳丘の表面に葺石を敷き、埴輪をめぐらして、その存在を誇示しようとしている。墳丘の内部には、遺体を安置した木棺をおさめる竪穴式石室や粘土槨が作られ、鉄製武器・工具のほか、銅鏡・玉・碧玉製腕飾りなどの呪術的宝器的なものが副葬されている。これらのことは、この時期の豪族が政治的支配者であるとともに、まだ卑弥呼のような司祭者的な性格を残していたことを示している。
4世紀末から5世紀にかけての中期の古墳は急激に巨大化する。中でも応神陵古墳や仁徳陵古墳は、墳墓そして世界最大級の規模を持っている。この最盛期の古墳は、平野の中に小山のように墳丘をもりあげ、濠をめぐらしたものが多い。古墳の築造は各地に急速に広まり、5世紀には東北地方から九州南部にまで及んだ。とくに毛野・吉備・出雲・日向などの地方には大規模な古墳が数多く作られており、これらの地域の豪族が、大和政権と密接な関係を持ちながらも、独自の勢力を築き上げていたことがうかがわれる。
朝鮮半島への進出: 4世紀から5世紀にかけて、倭が朝鮮半島に進出し、高句麗と交戦した。これは、大和政権が朝鮮半島の進んだ技術や鉄資源を獲得するために加羅に進出し、そこを拠点として高句麗の勢力と対抗したことを示すものであろう。『宋書』などには、5世紀初めからほぼ1世紀の間、倭の五王が中国の南朝に朝貢し、高い称号をえようとしたことが記されている。これは中国の皇帝の権威を利用して、朝鮮諸国に対する政治的立場を有利にしようとしたものと考えられる。このような朝鮮半島・中国南朝との交渉を通じて、大和政権は大陸の進んだ技術と文化を取り入れ、勢いを強めた。中期の古墳が急激に巨大化するのは、このころ大和政権の最高の首長である大王の権利が強大化したことを物語るものであろう。
大陸文化の伝来: このような大陸との積極的な交渉を背景に、5世紀には、鉄器生産・製陶・機織・金属工芸・土木などの諸技術が、朝鮮半島から渡来してくる人々(渡来人)によって伝えられた。大和政権は、彼らを韓鍛冶部・陶部・錦織部・鞍作部などと呼ばれる技術者集団に組織し、畿内やその周辺に居住させた。大陸からの渡来者は、その進んだ技術を持って各種の産業の発展に貢献した。また中国の文字である漢字の使用も始まったが、漢字を用いて朝廷の記録、出納・外交文書などの作成にあたったのも、最初は史部と呼ばれる大陸渡来の人々であった。
6世紀に入ると、大陸の宗教や学術も体系的にもたらされるようになった。儒教の摂取は、百済から五経博士が渡来することによって本格的となり、医・易・暦などの学術も伝えられた。南北朝時代の中国を中心に、朝鮮でも盛んになった仏教も、百済などの朝鮮半島の国々から日本に伝えられた。また、漢字や学術の伝来を背景として、6世紀半ばに朝廷で『帝紀』と『旧辞』がまとめられたと考えられる。
大王と豪族: 国土統一の進展ともなって、大和政権の基盤は5世紀後半から次第に強化され、政治組織も整えられていった。大和政権は大王を中心に、大和とその周辺に基盤をもつ中央豪族によって構成されていた。豪族は氏と呼ばれる血縁的結びつきをもとにした組織を作り、首長(氏上)にひきいられて大和政権につかえた。各氏はその家柄に応じて朝廷から臣・連・直・造・首などの姓と呼ぶ称号を与えられた(氏姓制度)。豪族はそれぞれ私有地である田荘や、私有民である部曲を領有して、それを経済的な基盤とした。また氏や、氏を構成する家々には奴隷として使われる奴(奴婢)があった。
朝廷の政治は、中央豪族の最有力者である大臣・大連を中心に進められた。朝廷の警備や祭祀などの様々な職務は、伴造と呼ばれる氏やそれを助ける伴によって分担され、伴造は伴や品部と呼ばれる人々をしたがえて、代々その職務に奉仕した。大陸の高い技術や文筆にたけた渡来人には、伴造や伴となるものが多かった。
地方の支配は、朝廷に服属した地方豪族にゆだねられ、朝廷は彼らの多くに、国造・県主などの地位を与えた。また大和政権は、5世紀後半から6世紀にかけて、地方豪族の支配下の農民の一部を名代・子代という直属民とし、また屯倉という直轄地を各地に設けた。
練習問題
一、次の質問に答えなさい。
1、日本列島はずっと前から現在のような形でしたか。
2、原始時代の人々はどんなことをして生活していますか。
3、原始時代の人々はどんな家に住んでいましたか。
4、貝塚というのは何ですか。
5、縄文式土器というのはどんな土器ですか。
6、稲作はいつごろ始まりましたか。
7、銅や鉄の金属器はいつ頃から使われましたか。
8、弥生式土器は、以前より丈夫で形の良いものになりまし
たか。
9、紀元1~3世紀ごろになると、国ができはじめましたか。
10、中国の『漢書』という古い歴史の本によると、1世紀
ごろ、日本の国から使者が来たそうですか。
11、『魏誌』によると、倭人の国はいくつかの小国に分かれ
ていましたか。
12、卑弥呼という人は、どこの国の女王ですか。
13、卑弥呼が中国に使者を送ったのはいつ頃ですか。
14、4世紀ごろ成立した大和政権はどのような人が作った
国ですか。
15、大和政権はいつ頃日本の大部分を支配するようになり
ましたか。
16、前方後円墳というのはどんな形をした古墳ですか。
17、どのような人のことを渡来人と言いますか。
18、渡来人が来て、日本人の生活に大きな進歩があったの
はなぜですか。
二、次の( )に当て嵌まる言葉や数字を書き入れなさい。
1、( )時代は、縄文時代や弥生時代に分かれますか。
2、縄文時代は、今から約( )万年前に始まりましたか。
3、弥生時代は、紀元前( )世紀ごろ始まりました。
4、縄文時代の人々は、( )式土器を使い、( )式住
居に住みましたか。
三、次の各文が正しければ○、間違いならば×を( )に書
きなさい。
弥生時代は、紀元後3世紀ごろまで続きました。( )
弥生時代になると、以前よりも広い地域で、稲作が行われるようになりました。( )
弥生時代になって、初めて金属器が使われました。( )
四、次の各文の( )の中から正しい言葉を一つ選んで、記
号に○を書きなさい。
1、大和政権の支配者を(豪族.大王.朝廷)と呼びました。
2、5~6世紀、渡来人は(漢字.平仮名.片仮名)や、い
ろいろな技術を日本に伝えた。
3、仏教は、6世紀に(インド・東南アジア.中国・朝鮮.
インド・中国)を通って、日本に伝来した。
五、課題研究
縄文時代から古墳時代にかけて、墓制の変遷をまとめ、
そこに葬られる人々の社会的な役割について考えてみよう。
農耕社会の発展の中で日本の国家統一が進んでいく過程
を、紀元前1世紀から紀元5世紀ごろまで、各世紀ごと
に簡単にまとめよう。
第二章 律令国家の形成
第一節 推古朝と飛鳥文化
中央集権への歩み: 5世紀の半ばすぎ、朝鮮半島では高句麗の勢いが強く、百済・新羅は圧迫していた。しかし、6世紀に入ると、百済・新羅はそれぞれ政治制度を整えて勢いを強め、南方の加羅諸国(任那)は562年までに次々に百済・新羅の支配下に入った。大和政権は、加羅にもっていた勢力の拠点を失ったが、なお百済などを通じて大陸文化とのつながりを保った。
こうした中で、大和政権は、6世紀初めに起こった筑紫国造磐井の反乱を鎮め、屯倉や名代の部を各地に置くなどして、地方に対する支配を強めていった。しかし、それとともに、大和政権を作っていた豪族たちも、多くの土地・農民を支配して勢いを強めるようになり、豪族同士の対立が激しくなった。6世紀初めの継体天皇の朝廷で勢いのあった大連の大伴氏は、朝鮮半島に対する政策の失敗によってやがて勢力を失い、6世紀中ごろの欽明天皇の時には、新たに勢いを強めてきた大臣の蘇我氏と、大連の物部氏とが対立するようになった。当時、中央では品部の組織を整え、政治機構を充実しようとする動きが進んでいたが、蘇我氏は渡来人と結ぶことによって朝廷の財政権を握り、政治機構を整える動きを積極的に進めた。
推古朝の政治: 6世紀の末、朝廷では、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして政権を独占し、さらに592年には、対立していた崇峻天皇をも暗殺した。このような政情の危機にあたって即位した女帝の推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子を摂政とし、国政を担当させた。太子は大臣の蘇我馬子と協力し、内外の新しい動きに対応して国政の改革にあたることになった。
推古天皇の朝廷では、603年に冠位十二階の制が定められた。冠位は、姓とは異なって、才能や功績に応じて個人に対して与えられるものであり、また次第に昇進することもできた。これは、のちの位階の制の起源を成すもので、役人としての性格を強めてきた豪族一人一人の、朝廷内における地位をはっきりさせるのに役立った。
聖徳太子はまた、604年に憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたる上での心構えを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した。また、太子は馬子とともに、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂したという。これらはいずれも豪族を官僚として組織し、国家の形を整えることを目指したものであった。これまでの大王などの称に変わって天皇の称号が用いられるようになったのも、推古朝のころからとみられている。
東アジアの情勢が大きく変化したのに伴って、隋と国交を開くことになった。607年には小野妹子が遣随使として中国に渡った。隋との交渉では、その国書に示されているように、倭の五王時代とは異なり、中国の王朝に対して対等の立場を主張しようとする態度が認められる。遣随使にはまた、多くの留学生・学問僧がしたがった。長期の滞在を終えて帰国した彼らの新知識は、のちの大化の改新に始まる国政改革に、大きな役割を果たすことになった。
飛鳥文化: 6世紀に我が国に伝えられた仏教は、はじめ大陸からの渡来人や蘇我氏などによって信仰されたが、蘇我氏が朝廷の実権を握ると朝廷の保護を受けて急速に発展し、朝廷の置かれた飛鳥を中心に最初の仏教文化が起こった。蘇我氏の発願による飛鳥寺、聖徳太子の発願によるといわれる四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)などをはじめ、諸氏も競って氏寺を建てた。
こうして寺院や仏像が、古墳に変わって豪族の権威を表すものとなった。しかし仏教は、一般には呪術の一種として信仰され、祖先の冥福を祈ったり病気の回復を願って仏像を作ることが多かった。当時の政治の中心が飛鳥にあったことから、この時代の文化を飛鳥文化と呼んでいる。
古墳時代には、渡来人を中心に様々な面で技術の進歩が見られ、文化は大いに発展した。飛鳥文化はそれまでの古墳文化に、新しく百済・高句麗などを通じて伝えられた中国の南北朝時代の影響が加わって生まれたものである。現存する法隆寺はいったん焼失したのち、7世紀後半に再建されたものと思われるが、南北朝時代の影響を受けた飛鳥建築の特色をよく残している。彫刻でも、法隆寺金堂釈迦三尊像には、北魏の仏像と共通する整った厳しい表情が見られる。これらの金銅像のほかに、法隆寺の百済観音像などの木像もある。また絵画や工芸も伝えられるなど、大陸からの新しい技法の伝来によって飛躍的に発展した。
この時代には仏教の学問的な研究も始まり、法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経典の注釈書で、聖徳太子の著といわれる三経義疏が伝えられている。百済の僧観勒が暦をもたらし、年月の経過を記録することがはじまったのもこのころで、歴史書や諸記録の発達にとって大きな出来事であった。
第二節
律令国家の成立
大化の改新: 618年、中国では隋が滅び、唐に変わった。唐は、北朝から隋にかけて発達してきた均田制・租調庸制を中心とし、高度に整えられた律令法に基づく中央集権的な国家体制の充実をはかった。このような唐の発展は、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の3国にも大きな影響を及ぼした。
日本では、聖徳太子と蘇我馬子が相次いで死去した後、馬子の子の蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には、蝦夷の子入鹿が自らの手に権利を集中しようとし、有力な皇位継承者の一人であった山背大兄王を襲って自殺させた。このような中で、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられると、朝廷では、豪族がそれぞれに私地・私民を支配して朝廷の職務を世襲するというこれまでの体制を改め、唐にならった官僚制的な中央集権国家体制をうちたてようとする動きが急速に高まった。
645年、中大兄皇子は、中臣鎌足とともに蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、新たに即位した孝徳天皇のもとで皇太子となり、新しい政府を作って国政の改革に乗り出した。新政府では、旧豪族のおもだったものが左右大臣となるとともに、中臣鎌足が内臣、唐から帰朝した高向玄理が政治顧問としての国博士となり、中大兄皇子を助けて政策の立案にあたった。この年、中国に倣ってはじめて年号を立てて大化とし、都を難波に移した。
新政府は、翌646年正月、4ヵ条からなる改新の詔を発した。それは、(1)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族にはかわりに食封などを支給する、(2)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制を作る、(3)戸籍・計帳をつくり、班田収授法を行う、(4)新しい統一的な税制を施行する、というもので、新しい中央集権国家のありかたがはっきりと打ち出されている。政府はこの方針に従って改革を進め、こののち、唐を模範とした律令による中央集権国家の体制が次第に形成されていった。
律令国家の形成: 中大兄皇子は667年、都を近江に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は最初の令である近江令を定めたといわれ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍を作り、改新政治の推進につとめた。大化の改新以来、30年近くも政治にあたっていた天智天皇が死去すると、翌672年、天智天皇の弟大海人皇子は、天皇の子大友皇子を擁する勢力と対立して吉野で兵をあげ、美濃に移って、ここを中心に東国の兵を集め、大和地方の豪族の協力を得て近江の大友皇子の朝廷を倒した(壬申の乱)。こののち、大海人皇子は即位して天武天皇となった。壬申の乱によって強大な権利を握った天武天皇は、その権利を背景に皇族を重く用いて天皇中心の政治を行い、律令国家建設の事業を強力に推し進めた。天皇は官吏の官位や昇進の制度を定めて、旧来の豪族を政府の官吏として組織することにつとめ、八色の姓を定めて、豪族を天皇中心の新しい身分秩序に編成した。天皇は、律令や国史の編纂にも着手した。
天武天皇のあとを継いだ皇后の持統天皇は、中央・地方にわたる統治機構を整え、飛鳥浄御原令を施行するなど、律令体制の整備につとめた。天皇はまた、国家運営の中心として、中国の都城に倣った広大な藤原京を、飛鳥の北方に営んだ。こうして、天武・持統両天皇の時代に、大化の改新以来の律令国家建設の事業は、ようやく完成に近づいた。
律令法と統治機構: 文武天皇の701年、藤原不比等らの手によって大宝律令が完成し、律令政治の仕組みもほぼ整った。日本の律令は唐の律令を手本としたもので、律は殆ど唐のものと同じであるが、令は日本の実情を考慮し、それに適した形に作られている。律は刑法にあたり、令は行政組織や人民の租税・労役、官吏の服務規定など、国家統治に必要な様々な条項を規定している。律令は長くその後の日本の政治に影響を与えた。
律令で定められた統治組織を見ると、中央には神々の祭りをつかさどる神祇官と、一般政務をつかさどる太政官との二官があり、太政官のもとには八省があって、それぞれ政務を分担した。国の政治は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などからなる太政官の公卿によって進められ、有力な豪族がその地位に就いた。一方全国は畿内・七道の行政区に分かれ、その下に国・郡・里が設けられ、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国司は中央の貴族が交代で任地に派遣され、郡司はもとの国造など在地の豪族の中から任命され、国司に協力して地方の政治にあたった。なお、特殊な地域をつかさどるものとして、京には左・右京職、難波には摂津職、外交・国防上の要地である九州には太宰府がそれぞれ置かれた。
一方司法制度も整えられた。刑罰としては、笞・杖・徒・流・死の五刑があったが、国家的・社会的秩序を保持するため、国家・天皇・尊属に対する罪は特に重いものとされた。
班田収授法と農民: 政府は、人民を戸籍・計帳に登録させ、これを50戸ずつの里に組織することによって、律令政治を末端にまで浸透させる仕組みをとった。戸籍は6年ごとに作られ、それに基づいて6歳以上の男女に一定額の口分田が与えられた。家屋やそのまわりの土地は私有を認められたが、口分田は売買を禁止され、死者の田は6年ごとの班年をまって収公された。これを班田収授法という。班田収授法は、豪族による土地・農民の支配をふせぎ、それらを国家の支配下におくことによって、徴税の対象を確保することを図ったものであった。田地は、班田の便宜のため国家の手で整然と区画された。これを条里制という。
農民は班田収授法によって最低限の生活を保障されたが、他面、国家に対して租・調・庸・雑徭などの重い負担を負っていた。租は口分田などの収穫から3%程度の稲をおさめるもので、地方の国々に貯えられ、その国の経費に充てられた。調・庸は絹・布・糸などをおさめるもので、主に成年男子に課せられ、農民の手で都に運ばれ、中央政府の財源になった。雑徭は国司の命令によって、数日を限って国内の水利土木工事や国衙の雑用などに奉仕する労役であった。
兵役は、成年男子3-4人に1人の割合で兵士に徴発されるもので、諸国に置かれた軍団で訓練を受け、その一部は京へのぼって宮城や京内を警備する衛士となり、あるいは九州北部の沿岸を守る防人となった。防人に充てられたのは、主に東国の農民であった。兵士は、武装や食料などを負担しなければならなかったから、庸・雑徭などを免除されてはいても、その負担は非常に重かった。また戸にとっても、兵士を出すことはその家の働き手をとられることになり、大きな痛手であった。
白鳳文化: 天武・持統天皇の時代には、律令国家が形成されていく時代を反映して、清新な文化が起こった。7世紀後半から8世紀初頭にかけての、貴族を中心とする文化を白鳳文化という。
天武天皇は、伊勢神宮をはじめとする神社の祭りを重んじたが、仏教も厚く信仰して、大官大寺・薬師寺などの官立の大寺院を建立し、また金光明経などの護国の経典を重んじた。朝廷が仏教の普及につとめたため、諸国にも郡司などの手になる寺院が建てられた。このように仏教が国家の保護を受けて発展した反面、寺院や僧侶は国家の厳しい監督のもとに置かれるようになった。
この時代には、隋・唐との交渉によって中国文化の直接流入の道が開けたので、美術にも初唐の文化の影響が見られる。興福寺仏頭や薬師寺金堂薬師三尊像などの金銅像はその代表的な作品で、人間的な若々しさにあふれている。とくに法隆寺金堂壁画は、インド・中国の様式を取りいれたスケールの大きい画風を現している。また貴族の間では漢詩が作られ始めた。日本古来の歌謡も、句の音数がこのころほぼ5音と7音に定まり、短歌・長歌の形式が完成し、柿本人麻呂・額田王らの優れた歌人が現れた。それらの作品は『万葉集』に収められ、雄大な格調やこまやかな叙情によって人々の心を打つものが多い。
第三節 平城京の時代
平城京と国土の開発: 元明天皇の時、それまでの藤原京に変わって奈良に大規模な都城が営まれることになり、710(和銅3)年、天皇はここに移った。これが平城京で、以後、都が平安京(京都)に移るまでの80年余りを奈良時代という。
平城京は、唐の都長安に倣い、東西南北に規則正しく走る道路によって整然と区画された都市であった。北部中央の宮城(大内裏)には、天皇の日常生活の場である内裏や、政務を行う朝堂、各官庁などがあり、国家の政治の中心を成していた。都は中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に分けられ、さらに東部には外京があった。京内には貴族や官吏の住宅のほか、大安寺・薬師寺・元興寺など飛鳥地方にあった寺院の多くが移され、大陸風の豪壮な宮殿や寺院が、都を華やかに彩った。
このような大規模な都城が造営されたのは、中央集権的な国家体制が整い、国家の富が天皇・貴族に集中したためであった。中央と地方とを緊密に結び付けるため、都を中心に道路が整備され、約16kmごとに駅家を設ける駅制が敷かれ、公用を帯びた役人がこれを利用した。都には東西に官営の市が設けられ、地方から運ばれる産物や官吏に禄として支給された布や糸などがここで交換され、市司がこれを監督した。政府は唐に倣って、708(和銅元)年の和銅開珎をはじめとして銭貨をしばしば鋳造した。政府は、鉄製の農具や進んだ灌漑技術を用いて耕地の拡大に努めたほか、各地に鉱山を開発して、養蚕や織物の技術者を地方に派遣して技術の普及に努めた。
充実した国力を背景に、政府は領域の拡大にも努めた。東北地方に住み、当時の朝廷から異民族とみなされていた蝦夷は、7世紀ころから征討の対象とされるようになり、大化の改新後まもなく、征討のための基地として、北陸に渟足・盤舟の2柵が設けられた。続いて斉明天皇の時代には、阿倍比羅夫が秋田地方の蝦夷を服属させた。8世紀に入ると蝦夷の征討は一層進み、日本海側には出羽国が置かれ、次いで秋田城が築かれ、太平洋側にも多賀城が築かれた。一方、九州南部及び薩南諸島の島々も相次いで朝廷に服属した。
遣唐使: 朝廷は、8世紀に入ると、ほぼ15年から20年に1度、大規模な遣唐使を派遣した。遣唐使の渡航は、航海や造船の技術が未熟なうえ、大海を横断する航路をとったこともあって、極めて危険であった。しかし、吉備真備ら遣唐使にしたがった留学生や学問僧たちは、数多くの困難を乗り越え、唐の文物を日本に伝えるうえに大きな役割を果たした。
新しい土地政策: 律令政治の展開にともなって、社会の基礎的な産業である農業も進歩した。鉄製の農具が一層普及し、農法の面でも苗代作り・田植え・根刈りが始まっていた。農民は、国家から与えられた口分田を耕作するほか、口分田以外の公有の田を国家から借り、それを耕作した。しかし農民にとって、調・庸の都への運搬や雑徭などの労役の負担はことに厳しく、彼らは農作業に必要な時間までしばしば奪われ、生活に余裕がなかった。天候の不順や虫害などのために飢饉が起こりやすく、わずかなことで生計が成り立たなくなることも多かった。
人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって、政府は田地の拡大を図り、723年には三世一身法を施行して、農民に開墾を奨励した。三世一身法は、新しく灌漑施設を作って耕地を拓いたものには三世の間、旧来の灌漑施設を利用したものについては本人一代に限り、その田地の保有を認めるものであった。さらに743(天平15)年には、政府は墾田永年私財法を発布し、開墾した土地は定められた面積をかぎって永久に私有することを認めた。しかしこのような政策は、登録された田地を増加させる効果があった反面、実際に土地を開墾できる能力を持つ貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することになった。ことに東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力を得、付近の農民や浮浪人などを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園と呼ぶ。
聖武天皇と政界の動揺: 8世紀初めには、貴族や中央の有力氏族の間の勢力の均衡がよく保たれ、その協力のもとに律令政治が進められた。しかし社会の変動が進むとともに、藤原氏の進出とも結びついて、政界には次第に動揺が高まってきた。
藤原鎌足の子不比等は、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏の発展の基礎を固めた。不比等の死後もその4子は引き続いて勢力を振るい、729年には皇族の左大臣長屋王を策謀によって自殺させ、不比等の娘の光明子を聖武天皇の皇后に立てることに成功した。しかし、疫病のために4子はあいついで倒れた。
藤原氏4子の死後は、皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備が、聖武天皇の信任を得て勢いを振るった。このころから飢饉や疫病による社会の動揺が激しくなり、740年には九州で乱を起こした(藤原広嗣の乱)。乱が平定されたのちも朝廷の動揺は治まらず、聖武天皇はそれから数年の間、恭仁・難波・紫香楽と都を移した。
聖武天皇が退位したのち、光明皇太后のもとで、その甥にあたる藤原仲麻呂が権勢を振るった。仲麻呂は反対派の橘諸兄の子奈良麻呂らを倒し、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜わって専制的な政治を行った。しかし、孝謙上皇に信任された僧道鏡が進出してくると仲麻呂はしだいにこれと対立し、764年、兵を挙げたが敗死した(恵美押勝の乱)。
その後、孝謙上皇は再び位について称徳天皇となり、道鏡はそのもとで太政大臣禅師となり、ついで法王の称号を得て権勢を振るった。この間、皇位の継承をめぐって皇族や貴族の争いが続き、また宮殿や寺院の造営によって国家の財政も大きく乱れた。このため、藤原氏などの貴族は、称徳天皇が死去すると銅鏡を追放し、新たに天智天皇の孫にあたる光仁天皇をたて、律令政治の再建に努めることになった。
第四節 天平文化
天平文化: 中央集権的な国家体制が整うにつれて、国の富は中央に集められ、皇族や貴族はこれらの富を背景に華やかな生活を送るようになった。その結果、奈良時代には、平城京を中心に高度な貴族文化が栄えた。この時代の文化を聖武天皇の時の年号をとって天平文化と呼ぶ。当時の貴族は、遣唐使などによって唐の進んだ文化を身につけることに大きな熱意を持っていたから、天平文化も、唐の最盛期の文化の影響を強く受けて、国際色豊かな性格を持つものとなった。
記紀と万葉集: 国家体制の整備につれて、朝廷がこの国を支配する由来と、国家の形成・発展のありさまを記すことを目的とした国史の編纂が行われるようになった。天武天皇の時に着手された国史編纂の事業は、奈良時代に入って、712(和銅5)年に『古事記』、720(養老4)年に『日本書紀』となって完成した。『古事記』は、古くから宮廷に伝わった『帝紀』と『旧辞』とに天武天皇が自ら検討を加え、稗田阿礼に誦みならわせたものを、のちに太安麻呂が筆録したもので、日本古来の歌謡や固有名詞などを、漢字を用いて忠実に表すために苦心が払われている。これに対し『日本書紀』は、舎人親王が中心となって編纂したもので、中国の史書の体裁に倣い、正式な漢文によって編年体で記述されている。
これらの史書とならんで地誌の編纂も行われた。713(和銅6)年、政府は諸国に各地の地理・産物・伝説などを書き出すことを命令し、諸国はこれに基づいて風土記を作って献上した。
奈良時代に入ると、漢詩文を作ることは貴族の教養としていっそう重んじられ、浅海三船らが文人として著名であった。751年にできた『懐風藻』は、天智天皇のころからの作品を集めた現存最古の漢詩集で、その詩には、六朝から初唐にかけての中国の影響が強く認められる。
和歌の世界では、山上憶良・大伴旅人・大伴家持らの歌人が相次いで現われ、それぞれ個性のある歌を残した。『万葉集』は奈良時代までの作品約4500首を集めた一大歌集で、著名な歌人の歌ばかりでなく、地方の農民の素朴な感情を表した歌も数多く収められている。漢字の音訓を巧みに組み合わせて日本語を記す万葉仮名が用いられていることも、『万葉集』の特色である。
律令の教育制度では、中央に大学、地方に国学があり、貴族や地方豪族の子弟を対象に、儒教の経典を中心とする教育が行われた。大学では法律・漢文・数学・書道などの学問も行われ、その他の官庁にも天文・医薬などの学者や学生が所属していた。大学や国学は主として官吏を養成するための機関であり、庶民の教育は行われなかった。
国家仏教の発展: 奈良時代には、仏教は国家の保護を受けて一層発展した。当時の僧侶は、インドや中国で生まれた様々な仏教の教理の研究を進め、それに伴い奈良の諸大寺には、南都六宗と呼ばれる諸学派が形成された。遣唐使に伴われて中国に渡った多数の学問僧や、様々な苦難を冒して渡来し、戒律を伝えた唐僧鑑真らの活動も、日本の仏教の発展に大きな力となった。僧侶の活動は、国家の厳しい統制のためもあって一般に寺院の中に限られ、民間への布教はあまり活発ではなかったが、それでも行基のように、政府の取締まりを受けながらも農民のための用水施設や交通施設を作るなど、布教と社会事業とに尽くした僧もあった。
仏教が政治と深く結びついたため、この時代の末には、道鏡のように政治に介入する僧侶も現われ、仏教の腐敗を招いた。しかし一方では、山林にこもって修行する僧も多く見られるようになり、その動きは、やがて平安新仏教の母体となった。
天平の美術: 奈良時代には、朝廷による仏教の保護を背景として、多くの寺院や優れた仏像が作られた。寺院建築の技法は一段と発達し、東大寺法華堂や唐招提寺金堂などの、どっしりとした建物が作られた。建築にはそのほか、唐招提寺講堂・法隆寺伝法堂・正倉院宝庫など、当時の宮殿や貴族の邸宅、寺院の倉庫のありさまを今日に伝えるものもある。彫刻ではそれまでの金銅像のほかに塑像や乾漆像の技法が発達した。その表現は唐のものに倣って写実的なものとなり、白鳳彫刻より一層豊かに人間感情を表している。
絵画には、薬師寺吉祥天像のような仏画のほか、正倉院の鳥毛立女屏風などの世俗画があり、いずれにも唐の影響が見られる。正倉院宝物は、光明皇太后が東大寺に献納した聖武天皇の遺品を中心とするもので、当時の工芸技術の最高水準を示している。その技法や意匠には、東ローマ・イスラム・インドなどの流れをくむものもあり、それらが唐を通じて日本に伝えられたことを物語っている。
第五節 平安初期の政治と文化
平安遷都: 光仁天皇は律令政治の再建に力を注ぎ、行政の簡素化や財政の節約を目的として官吏の減員をはかり、僧侶や国史に対する監督を厳しくてその規律を正しそうとした。794年、今の京都の地に平安京を造営し、そこに遷都した。この平安遷都から源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代と呼ぶ。
桓武天皇は、遷都とならんで蝦夷の征討に力を入れた。光仁天皇のころから、奥羽の蝦夷が大規模な反乱を起こし、一時は鎮守府のある多賀城をおとしいれた。この鎮圧のために数度にわたって大軍が派遣されたが、中でも桓武天皇の時の征夷大将軍坂上田村麻呂は鎮定に成功し、北進して北上川中流域に胆沢城を築いて鎮守府をここに移し、さらにその北方に志波城を築くなど、東北地方の経略を大いに進めた。これと並んで日本海側の開拓も進み、米代川流域までが国家の支配下に入った。
令制の再建: 桓武天皇は令制の再建を目指して勘解由使を置いて国史の交代の事務引継ぎを厳しくして国史の監督に努め、班田の励行をはかり、雑徭を半減して農民の負担を軽減した。また、従来の兵役による兵士はその質が低下して役に立たないので、全国のほとんどの軍団を廃止し、その代わりに少数の郡司の子弟を健児として地方の治安維持に当たらせるなどの改革を行い、律令政治を当時の実情にかなった形で実行することにつとめた。
律令政治の充実を図った桓武天皇の政策は平城天皇・嵯峨天皇にも引き継がれ、実情にそって令制の官庁の廃止や統合が行われる一方、令には規定されていなかった令外官と呼ばれる官職も新たに設けられた。中でもとくに有名なものは、嵯峨天皇の時に設けられた蔵人頭と検非違使である。蔵人頭は、810年の薬子の変に際して置かれたもので、天皇の秘書官として太政官との連絡や宮中の庶務に当たり、検非違使は、京内の警察や裁判の業務を掌るものであった。
嵯峨天皇のもとでは、法制の整備も大いに進んだ。律令の制定後、その条文を補足・改正するための格や、業務の施行細則を定めた式は、おりにふれて数多く出されてきたが、これらの格式を分類・編集して実務の便をはかるために弘仁格式が編纂された。これはのちの貞観・延喜の格式と合わせて三代格式と呼ばれるが、なかでも延喜式はもっとも完備したものといわれる。また、令の条文の解釈がまちまちになっていたのに対して『令義解』をつくって解釈を公式に統一したが、これらは法治国家としての体裁を整える意味を持っていた。
弘仁・貞観文化: 平安遷都から9世紀の末頃までの文化を弘仁・貞観文化と呼ぶ。この時期には、新都のもとで新時代を開こうとする生気があふれ、多彩な文化が展開した。その主な特色は、唐文化を十分に消化して漢文学が発展したことと、新しい仏教、ことに密教が盛んになってきたことである。
漢文学の隆盛: 貴族の間では、儒教の教養に基づいて、中国の文学や歴史を学ぶことが流行っていた。そして奈良時代の『日本書紀』のあとをうけて漢文体の国史が書き継がれ、いわゆる六国史が成立した。また嵯峨・淳和天皇のころには『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などの勅撰の漢詩文集が、相次いで編集されたことも時代の風潮を表している。唐風の書道ももてはやされ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢はその名手として三筆と呼ばれた。また有力な貴族たちは、大学に学ぶ子弟のために、大学別曹を建て、空海は、大学や国学に入れない庶民を教育するための学校として綜芸種智院を開いた。
またこの時代に、漢文を日本語として読みこなすための符号として片仮名がつくりだされ、万葉仮名の草書体をもとに平仮名も成立した。
密教の流行: 平安遷都に伴って、仏教界にも新しい風潮が起こった。近江に生まれた最澄は、遣唐使にしたがって入唐し、帰国後、天台宗をひらいて南都から独立した仏教修行の新しい道を唱えた。讃岐に生まれた空海も同時に入唐し、特に密教を学び、帰国後、真言宗を開いた。その結果、天台・真言両宗とも、加持祈祷によって現世利益をはかる仏教として皇室や貴族の間でもてはやされ、仏教界の主流となった。
仏教が次第に人々の間にゆきわたるにつれて、古くから行われていた神々の信仰との間に融合の動きが現れてきた。すでに8世紀には神社の境内に神宮寺を建てたり、寺院の境内に守護神を鎮守としてまつったり、神前で読経することなどが行われ、この神仏習合の風は年とともに発達した。また山中で修行する天台・真言両宗の風は古くからの山岳崇拝と結びつき、修験道の源となった。
練習問題
一、次の質問に答えなさい。
6世紀の中ごろ朝廷の中で何氏と何氏が最も有力になり
ましたか。
憲法十七条にはどんなことが示されていますか。
聖徳太子は中国に遣隋使や留学生を送りましたか。
聖徳太子は仏教を広めるために、大和になんという寺を建てましたか。
法隆寺には、優れた美術、工芸品が伝えられていますか。
飛鳥時代の美術、工芸は、大陸の影響が強いですか。
大化の改新の手本にしたのはどこの国の制度ですか。
朝廷は、平城京を中国のなんという都を手本にしてつくりましたか。
和銅開珎という貨幣はいつ発行されましたか。
10、墾田永年私財法というのはどんなことを決めた法律で
すか。
11、万葉集の歌の特色を述べてください。
12、万葉仮名というのはどんな字ですか。
13、唐の鑑真は日本で何という寺を建てましたか。
14、奈良時代の文化は唐の影響を強く受けていますか。
15、奈良時代の絵画や仏像は、豊かな人間らしい美しさを
持っていますか。
16、天平文化というのはいつの時代の文化ですか。
17、桓武天皇は何年に、都を京都に移しましたか。
二、次の文から、歴史的に正しい文を選んでください。
聖徳太子は、蘇我氏とともに天皇中心の国家をつくるこ
とに努力した。
聖徳太子は、家柄や身分の高い人物を役人にした。
聖徳太子は、「憲法十七条」を作って、役人の心構えを決めた。
聖徳太子は、天皇となってから隋に使者を送り、皇帝から金印を授かった。
聖徳太子の建てた飛鳥寺は、世界で最も古い木造建築物である。
「古事記」・「日本書紀」には日本の国家の誕生についての史実が記録されている。
「風土記」にはそのころの人民の戸籍が記録されている。
「万葉集」には天皇や貴族の作品だけが収められている。
柿本人麿・山上憶良らは、万葉歌人である。
三、次の各文の( )に当て嵌まる言葉や数字を書きなさい。
1、645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、「( )の改新」を
行った。
2、701年、中国の制度を手本にして、「( )律令」を制
定した。
3、人民は、「班田( )の法」をもとに、いろいろな義
務を負わされた。
4、奈良時代は、( )年から約80年間続いた。その間、
聖武天皇の天平時代に最も文化が栄えたので、奈良時代
の文化を( )文化という。
5、( )院には、中国・インド・ペルシアの品々がある。
当時、「遣( )使」が中国の長安に何回も派遣された。
四、次の事柄を、時代順に並べて番号で書きなさい。
新しく土地を開墾した者にその土地を与えるという決ま
りをつくった。
2、「和銅開珎」という貨幣を作った。
3、奈良に「平城京」という立派な都をつくった。
貴族らは、「荘園」という広大な私有地を持つようにな
った。
五、課題研究
飛鳥文化から弘仁・貞観文化に至る各文化の代表的な仏
教関係の文化財を、建築・彫刻・絵画などの分野ごとに整理し、さらにそれらの文化財に見られる当時の仏教の特色を考えてみよう。
第三章 貴族政治と国風文化
第一節 摂関政治
藤原氏の発展: 藤原氏の中でも、奈良時代から平安時代初頭にかけては式家が栄えたが、薬子の変後は衰え、かわって北家の勢力がしだいに高まってきた。まず9世紀初め、北家の冬嗣がでて嵯峨天皇の厚い信任を得て蔵人頭から左大臣に昇り、皇室と姻戚関係を結んだ。
その子良房は、858年、清和天皇が幼少で即位すると、その外祖父として臣下ではじめて摂政の任を務めることになった。また、884年、光孝天皇は即位にあたって良房の養子である太政大臣基経を優遇するために、基経をはじめて関白とし、政治の実権をゆだねた。この間、良房は承和の変で橘逸勢らの有力な氏族の勢力を退け、応天門の変で大伴・紀両氏を没落させた。こうして藤原氏北家の勢力は急速に強大となった。
しかし、宇多天皇は基経の死後、摂政・関白をおかず、菅原道真を登用して藤原氏を抑えようとした。続く醍醐天皇の時代に、基経の子時平が左大臣に、道真が右大臣になったが、藤原氏は策謀を用いて道真を左遷した。この後、左大臣時平のもとで令制の再建がはかられ、班田の励行を行うとともに延喜の荘園整理令が出された。
10世紀の前半は醍醐・村上天皇が親政を行い、朱雀天皇の時には、時平の弟忠平が摂政・関白をつとめ、藤原氏の地位がほぼ確立した。そして969年の安和の変で、醍醐天皇の子で左大臣の源高明が左遷されるにおよび、藤原氏北家の勢力は不動のものになり、その後はほとんどつねに摂政または関白がおかれるようになったが、その地位には必ず基経の子孫がつくのが例であった。
摂関政治: 摂関・関白が引き続いて政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ころの政治を摂関政治と呼び、摂政・関白を出す家柄を摂関家という。
摂関家の勢力がもっとも盛んであったのは、11世紀の藤原道長とその子頼通の時代である。摂関家の内部では摂政・関白の地位をめぐって一族の間に勢力争いがあったが、それも道長の時には治まった。彼は4人の娘を次々に皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権勢をふるった。後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇はみな道長の外孫で、道長のあとを継いだ頼通はこの3天皇の時代、約50年間にわたって摂政・関白をつとめ、摂関家の勢力は安定していた。
摂政は天皇が幼少の期間、その政務を代行し、関白は天皇の成人後にその後見役を務めた。当時の貴族社会では母方の縁が非常に重く考えられていたから、天皇を後見する資格としては、天皇の外戚(母方の親戚)であることが重要視された。律令政治は天皇が太政官を通じて中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとり、この形は摂関政治でも同じであった。そして摂政・関白は、最も縁故の深い外戚として天皇に近づき、伝統的な天皇の高い権威を大幅に握ることを目指していた。とくに、摂政・関白が天皇とともに役人の任免権を専有していたことは、その権勢を強大なものにした。
地方政治と国司: 8世紀後半のころから、地方の農村では調・庸の重い負担を逃れようとして逃亡する班田農民があとを絶たず、9世紀には戸籍に記載された農民の数は激減していた。こうして班田制を維持して調・庸を収取することがますます困難となった。
一方では、大量の米や銭を所有した有力農民の動きが活発になっていった。彼らは、租税の納入に苦しむ周辺の小農民に米等を高利で貸しつけて支配下に繰り入れ、墾田開発を進めて土地を私有した。有力農民はまた、国司の支配下から抜け出し、中央の大貴族や寺院と結んで、その所有地を大貴族・寺院の荘園とし、ますます勢力を拡大しようとした。
こうした動きによって律令制的支配の根幹は大きく動揺し始めた。これに対して、政府は902年、一連の法令を出して、法にそむく荘園の停止を命じたり、班田の励行をはかったりして令制の再建を目指した。しかし、この年が班田実施の最後の年となったことからも明らかなように、律令制の原則で財政を維持することはもはや不可能になっていた。そこで政府は、まもなく方針を転換し、国司に一定額の税の納入を請け負わせて、一国内の統治をゆだねる方針をとり始めた。こうして地方政治の運営に、国司の果たす役割は大きくなった。
国司は有力農民に一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、かつての租・調・庸にみあう年貢・臨時雑役などの租税を徴収するようになった。租税徴収の対象となる田地は請負人の名を付けて名田と呼ばれ、請負人は田堵と呼ばれた。田堵の中には国司と結んで勢力を拡大して、ますます大規模な経営を行った。こうして戸籍に記載された成年男子を中心に課税する律令的支配の原則は崩れ、有力農民の経営する名と呼ばれる土地を基礎に課税する支配体制ができていった。
やがて貴族の間に、私財を出して朝廷の儀式や寺社の造営などを助け、代償として国司など官職を得る成功が盛んとなり、またそれによって国司に再任される重任も行われるようになった。国府で支配にあたっていた国司は、地方に赴任しないで京に住み、かわりに目代を国に派遣して政治を行うものが多くなった。これを遙任と呼ぶ。一方、任国に赴任した国司のうちの最上級のものは受領と呼ばれ、強欲で私腹を肥やすものが多く、そのため任地では郡司や有力農民から暴政を訴えられる場合がしばしばあった。
地方の反乱と武士: 地方行政のありかたが大きく変質していく中で、各地に成長した有力農民は、その勢力を拡大するために武装し、弓矢を持ち、馬に乗って戦う武士となった。彼らは武士団を形成し、互いに闘争を繰り返し、時には国司に反抗した。やがてこれら中小武士団は地方の豪族を中心に連合体を作って、とくに辺境の地方では、有力な大武士団が成長し始めていた。中でも関東地方は、古くから蝦夷地征討の基地として軍事的活動が盛んで、また良馬を産したところから武士団の成長が著しかった。この地方に早くから根を下ろしたのは桓武平氏の一族であった。その一人で下総を根拠にしていた平将門は、国司に反抗していた豪族と手を結び、939年ついに反乱を起こして、常陸・下野・上野の国府を攻め落としたが、やがて同じ関東の武士の藤原秀郷らによって、反乱は平定された。
同じころ、もと伊予の国司の藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予の国府や太宰府を攻め落として、朝廷に大きな衝撃を与えた。この乱を通じて中央貴族の無力が明らかになるとともに、地方武士団の組織はいっそう強化された。
国際関係の変化: 外交の面では、894年菅原道真の建議もあり、律令時代に多くの犠牲を払いながら、盛んに唐の文物をもたらしてきた遣唐使が廃止された。すでに唐は、8世紀の内乱ののちに衰退を続けており、独自の成長を遂げている日本にとって、多くに危険を冒してまで公的な交渉を続ける必要がないと考えられたからである。
907年、東アジアの文化の中心であった唐はついに滅び、五代の諸国を経て宋がこれにかわった。日本は宋と正式な国交を開こうとはしなかったが、宋の商船はときどき九州などへ貿易のために来航した。また朝鮮半島では10世紀初めに高麗が起こり、やがて新羅を滅ぼして半島を統一した。しかし、これらの諸国との国交は開かれず、日本と海外諸国との交渉は不振であった。
第二節 国風文化
国風文化: 10世紀以後、文化の趣きは弘仁・貞観文化と比べて大きく変わっていた。優美で細やかな情緒に富む貴族文化が起り、その特色は文化の国風化という点にあるので、これを国風文化という。国風文化の伝統は平安時代以後も長く伝えられたが、その基礎が築かれたのは、おおむね摂関政治の時期であるため、藤原氏が栄えた時代を中心とする文化として藤原文化とも呼んでいる。
9世紀末には、遣唐使が廃止され、それまで盛んに吸収してきた唐の文物の影響が衰えた。一方、多年にわたって流入した大陸文化は、ほぼ一通り消化され、そのうえにたって、日本の風土や人情・嗜好にかなったものが自然に創り出されてきた。また、前代に始まった神仏習合がいっそう進んで、神と仏とは元来別のものではないとする本地垂迹説が起り、その考えは多少形を変えながらも長く近世まで続いた。さらに浄土教が発達して、それまでの難しい教理を主とした学問的仏教から、一般生活に溶け込んだ親しみやすいものにかわっていった。
国文学の発達: 文化の国風化を最もよく表しているものは、
かな文字の発達である。9世紀には、万葉仮名の草書体を簡略化した平仮名や、漢字の一部分をとった片仮名が表音文字として用いられはじめていたが、字形も11世紀初めにはほぼ一定し、広く使用されることになった。その結果、日本人特有の感情や感覚を生き生きと伝えることも可能になって、国文学が大いに発達した。
まず、漢文学とともに、和歌が公式の場でももてはやされるようになった。そしてそれまでの勅撰漢詩集にかわって、905年、最初の勅撰和歌集として『古今和歌集』が紀貫之らによって編集された。その繊細で技巧的な歌風は古今調と呼ばれて長く和歌の模範とされ、勅撰和歌集はこののちあいついで編集されていった。
貴族は公式の場合は、従来どおり文章を漢字だけで記したが、その文章も純粋な漢文とはかなりへだたった和風のものとなった。一方、仮名は和歌を除いては公式の場では用いられなかったが、日常生活の面では広く用いられるようになり、優れた仮名文学作品が次々と現れた。
仮名の物語・日記なども極めて盛んとなった。物語としては、伝説を題材とした『竹取物語』や、歌物語の『伊勢物語』などにつづいて、紫式部の『源氏物語』が生まれた。これは主に宮廷を舞台に、理想的な貴族の生活を描いた大作で、同じく宮廷生活の体験を随筆風に書いた清少納言の『枕草子』とならんで、国文学における最高の傑作とされている。仮名の日記は紀貫之の『土佐日記』を最初とするが、宮廷女性の手になるものが多く、女性特有の細やかな感情をこめて記されている。
浄土の信仰: 摂関政治期の仏教は、天台・真言の2宗が圧倒的な勢力を持ち、いずれも祈祷を通じて貴族と強く結びついていた。神仏習合の風もますます盛んで、在来の神々を仏と
このような現世の利益を求める様々な信仰と並んで、来世での幸福を説いて現世の不安から逃れようとする浄土教が新たに流行してきた。浄土教は独立した宗派ではなく、阿弥陀仏を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えである。その思想は早くから伝わっていたが、10世紀半ばに空也が京の市中でこれを説き、すこしおくれて源信が『往生要集』を現して念仏往生の教えを説くと、浄土教は貴族をはじめ庶民の間にも広まった。
国風美術: 美術工芸の面でも国風化の傾向は著しかった。建築では、当時の貴族の住宅がその例で、寝殿造と呼ばれる日本風の興味豊かなものであった。そして建物の内部の襖や屏風には、これまでの唐絵にかわって、日本風物を題材とし、なだらかな線と美しく上品な色彩を持つ大和絵が描かれた。初期の大和絵の画家としては巨勢金岡が知られている。屋内の調度品にもこのころ独自の発達をとげた蒔絵の手法が多く用いられて、華やかさを添えた。
書道も前代の唐様に対して優美な線を表した和様が発達し、小野道風・藤原佐理・藤原行成の三蹟と呼ばれる名手が現れた。それらの書は美麗な草紙や大和絵屏風などにも書かれて調度品としても尊重された。
浄土教の流行に伴い、これに関係した各種の美術作品が数多く作られた。藤原道長が建ててその壮麗をうたわれた法成寺も、阿弥陀堂を中心とした大寺であり、その子頼通の建立した平等院鳳凰堂は阿弥陀堂の代表的な遺構である。その本尊の阿弥陀如来像は柔和な気高い姿をしているが、その作者の定朝は当時の最も有名な仏師で、従来の一木造にかわる寄木造の手法を完成し、仏像の大量の需要をみたした。
貴族の生活: 当時の貴族の生活は、極めて日本色の濃いものとなった。男子の正式な服装は束帯やそれを簡略にした衣冠、女子の正装は唐衣や裳を付けた俗に十二単と呼ばれる女房装束であったが、これらは唐風の服装を、思い切って日本人向きにつくりかえた優美なものである。衣料は主に絹を用い、文様や配色などにも日本風の意匠を凝らした。
住宅は、開放的な日本風の寝殿造であり、そこに畳をおいてすわる生活であった。
食生活は比較的簡素で、仏教の影響もあって獣肉は用いられず、調理に油を使うこともなく、食事は日に2回を基準とした。
10-15歳くらいで男子は元服、女子は裳着の式をあげ、それからは成人として扱われるが、男子は官職を得て朝廷に出仕した。その地位の昇進の順序や限度は、慣例として家柄によってほぼ一定していた。朝廷での仕事は政治の実務的なことでさえも儀式作法がやかましく、また年中行事が発達し、前例や作法をこころえていることが大切な教養とされていた。
貴族は多く左京に住み、摂関家などは大邸宅を京中にいくつも持っていたが、大和の長谷寺などに参詣するほかは京を離れて各地を旅行することは極めてまれであった。貴族の邸宅は娘にゆずられることが多く、当時の貴族の結婚は男子が妻の家で生活するのが普通で、生まれた子は妻の家で養育され、今日よりも母方の縁がはるかに深かった。
第三節 荘園と武士
荘園の発達: 都では摂関政治が行われていた間に、地方の状況は大きく変化していった。多くの土地を有する人は開発領主と呼ばれて一定の地域を支配するまでに成長してきた。これを国司がおさえつけようとすると、所領を中央の権利者に寄進し、権利者を領主と仰ぐ荘園とした。寄進を受けた荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園が更に上級の大貴族や皇室などの有力者に重ねて寄進された時、上級の領主は本家と呼ばれた。そして開発領主は下司などの荘官となり、所領の私的支配を今までよりさらに一歩推し進めることができた。こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀半ばには各地に広まった。
そもそも荘園とは、すでに8、9世紀に、貴族や大寺院が地方に所有する別宅や倉庫などの建物群と、そのまわりの墾田とを合わせて私有地としたことに始まる。これら初期の荘園は、必ずしも国家から租税の免除(不輸)を認められたものばかりではなかったが、荘園領主の権威を背景として中央政府から不輸の権を承認してもらうようになり、平安中期になって地方の支配が国司に委ねられるようになると、国司によって不輸が認められる荘園も生まれた。
やがて荘園内での開発の進展に伴って不輸の範囲や対象も広がり、開発領主と国司の対立も激しくなると、本家の権威を利用して検田使など国司の使者の立ち入りも認めない不入の特権を得る荘園も多くなってきた。荘園寄進の拡大によって、こうした傾向はいっそう強くなった。
不輸・不入の制度の拡大によって荘園はようやく国家から離れ、土地や人民の私的支配が始まったが、寄進地系荘園の拡大はこの傾向をいっそう強めた。こうした情勢に直面し、国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになった。
荘園と公領: 貴族や寺社が支配した荘園が増大していったものの、一国の中で国司の支配下にある公領(国衙領)もまだ多くの部分を占めていた。これらの公領を実質的に管理したのは、国衙で実務をとる在庁官人であり、在庁官人には開発領主があてられる場合も多くなった。彼らは公領を自分の勢力範囲を定めて分割し、あたかもみずからの領地のように管理した。
一方、国司は徴税を行う立場から在庁官人らの勢力範囲を郡・郷・保などの新たな単位に在編成し、彼らを郡司・郷司に任命して徴税を請け負わせた。律令制度のもとでは国・郡・里の区分で構成されていた一国の編成は、荘・郷などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制に移行し、次の時代に引き継がれていった。
武士団の成長: 開発領主は私領の拡大と保護を求め、土着した貴族や有力な在庁官人のもとで武士団を形成していった。彼らは中央貴族の血筋を引くものを棟梁にいただき、大きな勢力に統合されつつあった。その中の源満仲が摂津に土着していたが、満仲の子の頼光・頼信兄弟は摂関家に近づき、その保護のもとに中央での地位を高めた。1031年、頼信は房総半島一帯に広がった平忠常の乱を鎮圧して、源氏の東国進出のきっかけをつくった。
このころ、陸奥では豪族安倍氏の勢力が強大で国司と争っていた。源頼信の子頼義は陸奥守・鎮守府将軍として任地にくだり、子の源義家とともに東国の武士を率いて安倍氏と戦い、出羽の豪族清原氏の助けを得てようやくこれを滅ぼした。その後、源氏は武家の棟梁としての地位を固めた。
第四節 院政と平氏の台頭
院政の開始: 藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったので、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。天皇は学識にすぐれた人材を登用し、摂関家にはばかることなく国政の改革に取り組んだ。とくに荘園の増加が公領を圧迫することを心配した天皇は、1069年に厳しい延久の荘園整理令を出し、記録荘園券契所(記録所)を設けて荘園の所有者から証拠書類を提出させ、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止した。摂関家の荘園も例外ではなく、この整理令はかなりの成果を上げた。
白河天皇も後三条天皇の遺志を受け継いで親政を行ったが、1086年、幼少の堀河天皇に譲位したのち、みずから上皇(院)としてその御所に院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになった。上皇は、摂関政治のもとで恵まれなかった中・下級貴族、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士をおいて武士団を組織するなど、院の権力を強化した。
白河上皇のあとも、鳥羽・後白河上皇と3上皇の院政が100年あまり続き、法や慣例にこだわらずに、上皇が政治の実権を行使した。そのため朝廷を支配する摂関家の勢力は衰えた。
院政期の社会: 上皇は仏教を厚く信仰し、出家して法皇となり、威勢に任せて六勝寺など多くの大寺や堂塔・仏像を造り、盛大な法会を行った。しかし、これらの費用を調達するために売位・売官の風はますます盛んになり、政治の乱れは激しくなった。
上皇のまわりには富裕な受領や后妃・乳母の一族など、院近臣と呼ばれる一団が集まり、上皇の力を借りて収益の豊かな国の国司などの官職に任命されようとした。このころには知行国の制度が広まって、公領はあたかも知行国主や国司の私領のようになり、これが院政を支える基盤の一つとなっていた。
院政のもう一つの基盤は、大量の荘園であった。とくに鳥羽上皇の時代には、院に荘園の寄進が集中したばかりでなく、有力貴族や大寺院への荘園の寄進が非常に増加した。
また大寺院は、数多くの荘園から徴発した農民たちと下級の僧侶を、ともに僧兵として組織し、国司と争った。こうして権利者が各種の私的な勢力に分裂し、相互に法によらず実力で争うという院政期の社会の特色をよく表している。しかもこの際、神仏の威をおそれ、無気力となっていた貴族は、大寺院の圧力に抗することができず、もっばら武士の力に頼ろうとし、ここからも武士の進出を招くことになった。
保元・平治の乱: 武家の棟梁としての源氏の勢力は、義家の後衰えはじめた。これにかわって院と結んで目覚しい発展ぶりを示したのが伊賀・伊勢を地盤とする桓武平氏の一族であった。なかでも平正盛は武名をあげ、正盛の子忠盛は鳥羽法皇の信任を得、武士としても院近臣としても重く用いられるようになった。
平氏の勢力を飛躍的に伸ばしたのは忠盛の子清盛である。1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、かねて皇位継承をめぐって法皇と対立していた崇徳上皇が、左大臣藤原頼長らと結んで平忠正らの武士を集めた。これに対し、法皇の立場を受け継ぐ後白河天皇と藤原通憲らが、清盛や源義朝らの武士を動員し、上皇方を攻撃して討ち破った。その結果、上皇は讃岐に流され、頼長・忠正は殺された。これが保元の乱である。そののち、院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治元)年には近臣の一人藤原信頼が源義朝と結んで兵を挙げ、清盛と結ぶ信西を殺して一時は優勢であったが、かえって清盛によって討ち滅ぼされてしまった。
これが平治の乱で、この二つの乱を通じて、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。
平氏政権: 平治の乱後10年もたたないうちに、清盛は異例の昇進をとげて短期間ながら太政大臣となり、その子重盛らの一族もみな高位高官に昇って、勢威ならぶもののないありさまとなった。平氏が全盛を迎えた背景には、各地方での武士団の成長があった。清盛は彼らの一部を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命して、畿内・西国一帯の武士を家人とすることに成功した。また経済的基盤としても数多くの知行国と500余りの荘園を所有するなど、その政権は著しく摂関家に似たものがあった。これらの点からすると、平氏政権は武士でありながら貴族的な性格が強かったといえる。
平氏は日宋貿易にも力を入れた。すでに11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来がようやく活発となり、12世紀に入って、対外政策は大きく変化した。宋船のもたらした多くの珍宝や書籍は、以後の日本の文化や経済に大きな影響を与え、また貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤となった。
平安末期の文化: 貴族文化はこの時期に入ると、新たに台頭してきた武士や庶民と、その背後にある地方文化をとり入れるようになって、新鮮で豊かなものを生み出した。奥州藤原氏の建てた平泉の中尊寺金色堂や、陸奥の白水阿弥陀堂など、地方豪族のつくった阿弥陀堂や浄土教美術の秀作が各地に残されている。
後白河法皇がみずから民間の流行歌謡である今様を学んで『梁塵秘抄』を編んだことは、この時代の貴族と庶民の文化との深いかかわりをよく示している。また、インド・中国・日本の1000余りの説話を集めた『今昔物語集』の中には、武士や庶民の生活がみごとに描き出されている。この時代の文学が地方の動きや武士・庶民の姿に関心を持っていたことを示すものであった。田楽などの庶民的芸能が貴族の間に大いに流行したのも同じ動向のあらわれである。またこれまでの物語文学にかわって、『大鏡』などの国文体の優れた歴史物語があらわされたのも、転換期にたって過去の歴史を振り返ろうとするこの時期の貴族の思想を表している。
絵画では大和絵の手法が絵と詞書をおりまぜながら時間の進行を表現する絵巻物に用いられて発展した。『源氏物語絵巻』をはじめ、多くの傑作がこの時期に生み出され、中には『鳥獣戯画』のように、動物を擬人化して生き生きと描いた異色のものも見られる。平氏に厚く信仰された安芸の厳島神社には、豪華な平家納経が残されており、平氏の栄華を物語っている。
練習問題
次の質問に答えなさい。
1、藤原氏の中で最も栄えたのは誰の時代ですか。
2、遣唐使はなぜ廃止されたのですか。
3、平安時代の貴族は正装のとき、どんなものを着ましたか。
4、「古今和歌集」は勅撰集ですか。
5、紫式部は何という長編小説を書きましたか。
6、「枕草子」という随筆は誰が書いたものですか。
7、浄土教というのはどのような教えですか。
8、武士というのはどのような人々ですか。
9、保元・平治の乱で平氏が勝ちましたか、源氏が勝ちまし
たか。
10、平氏一族は、清盛が政治の実権を握ってから朝廷の高
い位に着きましたか。
11、清盛は、兵庫港を修築して中国と貿易をし、大きな利
益を手に入れましたか。
次の各文から歴史的に正しいものを選びなさい。
1、平安時代の終わりごろ、武士が台頭して、藤原氏の子
孫が武士団のかしらになった。
2、平清盛は、武士で最初の太政大臣になった。
3、11世紀の終わり、律令政治に代わって院政が始まった。
次の表に正確なものを、下のものから選んで書きなさい。
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文 学
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作 品 名
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作 者
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1
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和歌集
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2
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小 説
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3
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随 筆
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紫式部 清少納言 紀貫之 枕草子 古今和歌集
源氏物語
課題研究
1、藤原氏が権力獲得のためにとった手段について、具体例
をあげて説明しよう。
2、律令国家の土地支配体制は平安時代を通じてどのように
変化していったか。
第四章 武家会社の形成
第一節 鎌倉幕府の成立
源平の争乱: 平氏政権の全盛も長くは続かず、地方の武士団や都の貴族・大寺院の中には、平清盛の専制に対する不満が渦巻きはじめた。1180年、この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王(1151~1180)と摂津源氏の源頼政(1105~1180)は、平氏打倒の兵をあげ、決起を呼びかける王の命令を諸国の武士に伝えた。これに応じて、伊豆に流されていた源頼朝(1147~1199)や、信濃の木曽谷に隠れていた源義仲(1154~1184)をはじめ各地の武士団が次々と立ち上がり、大寺院の僧兵もこれに応じて、ついに内乱が全国的に広まった(治承・寿永の乱)。内乱の大きな力となったのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、新たな体制を求めていた。
平氏は都を福原京(神戸市)へと移し、畿内を中心とする支配体制を固めてこれらの動きに対決しようとした。こうして前後5年にわたり、全国各地で戦いが続いた。しかし、おりからの畿内・西国を中心とする大飢饉や、清盛の死などの悪条件も重なって平氏は敗北し、安徳天皇を奉じて西国に都落ちした末、1185年、頼朝の命をうけた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに長門の壇の浦で滅亡した。
鎌倉幕府: 反平氏の諸勢力のうち、最も有力であったのは、武家の棟梁の家柄で源氏の嫡流である頼朝のもとに結集した東国の武士団であった。頼朝は挙兵後まもなく源氏ゆかりの地、相模の鎌倉を根拠地として、上京を急がず、新しい政権の樹立に努めた。この間、頼朝は東国の荘園・公領を支配し、御家人の所領支配を保障していたが、1183年、平氏の都落ちの後、京都の後白河法皇と交渉して東国支配の実質上の承認を得た。ついで1185年、平氏の滅亡後、頼朝の強大化をおそれた法皇が義経に頼朝の追討を命じて失敗すると、頼朝は軍を京都におくり法皇にせまって諸国に守護を、荘園や公領に地頭を任命する権利と、1反当り5升の兵粮米を徴収する権利、さらに実権を握り、在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心に頼朝の支配権は、広く全国に及ぶこととなった。
そののち頼朝は、逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼし、1192年、法皇の死後には、ついに念願の征夷大将軍に任ぜられた。ここに武家政権としての鎌倉幕府は名実ともに成立した。
幕府の支配機構は、簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として、御家人を組織し統制する侍所、一般政務や財政事務をつかさどる政所、裁判事務を担当する問注所などがおかれ、京都からくだってきた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補佐した。地方には守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に一人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命された、大犯三ヵ条などの職務を任とし、国内の御家人を指揮して治安の維持と警察権の行使にあたり、戦時には国内の武士を統率した。守護は在庁官人を支配し、とくに東国では国衙の行政事務を引き継いで、地方行政官としての役割も果たした。
地頭は御家人の中から任命されて、全国の荘園や公領におかれた。その任務は年貢の徴収・納入と土地の管理・治安維持であった。地頭とはもともと現地をさす言葉で、荘園のもとで、在地に強固な支配権を持つ下司などと同じような荘官の職名の一つとなったもので、平氏政権のもとで一部には実施されていた。地頭の給与には一定の決まりはなく、それぞれの場所ごとの慣例に従っていたので頼朝はさらに発展させ、朝廷の許可によって地頭に任命するという形式で、御家人たちの在地領主権を保障する方法を一般化した。こうしてそれまでの下司などの荘官の多くは、新たに頼朝から任命を受けた地頭となり、年貢を徴収して国司や荘園領主に納入することを義務づけられたものの、その任免権は国司や荘園領主から幕府の手に移ることとなった。荘園領主側は地頭の全面的設置に強く反対したので、当初の設置範囲は平氏やその関係者の旧領、あるいは謀叛人の所領に限られたが、やがて幕府勢力の拡大とともに地頭の任命は広く全国におよぶようになった。
鎌倉幕府と御家人: 幕府支配の根本となったのは、将軍と御家人との主従関係である。頼朝を主人とあおいだ御家人は、主に地頭に任命されることによって先祖伝来の所領の支配を保障され、新たな所領を与えられるなどの御恩をうけた。これに対して御家人は、戦時には生命をかけて戦い、平時には京都大番役や鎌倉番役などをつとめて、従者としての奉公に励んだ。このように土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる制度が封建制度であり、守護・地頭の設置によって、はじめて日本の封建制度が国家的制度として成立したと考えられている。
鎌倉幕府は封建制度に基づく最初の政権であり、平安時代後期以来、各地に開発領主として勢力を拡大してきた武士団、とくに東国武士団は、御家人として幕府のもとに組織された。そして御家人の多くは地頭に任命されて、荘官や郡司などよりも強力に所領を支配することを将軍から保障された。
しかし、この時代には、京都の朝廷や公家・大寺社を中心とする荘園領主の力がまだ強く残っており、政治の面でも経済の面でも、二元的な支配が特徴的であった。朝廷は形式上これまでどおり国司を任命して全国の一般行政を統轄していたが、東国は実質上幕府の支配地域であり、その他の地方でも国司の支配下にある国衙の任務は守護を通じて幕府に吸収されていった。また貴族・大寺社は国司や荘園領主として、土地からの収益権を握っていたが、多くの地域で荘官などが地頭へかわってゆくと、これに伴って幕府による現地支配力が強まるようになった。
この点で幕府の成立は、地方武士団にとって誠に大きな前進であった。しかし、将軍である頼朝自身が多くの知行国や平氏の旧領を含む大量の荘園を所有しており、その意味では幕府の首長がすでに貴族性を帯びていた。幕府は守護・地頭を通じて全国の治安の維持にあたり、また年貢を納入しない地頭を罰するなど、一面では、朝廷の支配や荘園・公領の体制の維持を助けた。しかし他面、幕府は東国はもちろん、ほかの地方でも支配の実権を握ろうとしたため、守護・地頭と国司・荘園領主との間で、次第に紛争が多くなっていった。こうして朝廷と幕府とは、支配者としての共通面を持ちながらも対立を深めていった。
第二節 執権政治
北条氏の台頭: 優れた指導者であった頼朝のもとでは、将軍独裁の体制で政治が運営されていた。しかし頼朝の死後あいついで将軍となった若い頼家(1182~1204)と実朝(1192~1219)の時代には、有力な御家人の間で幕府の主導権をめぐる激しい争いが続き、多くの有力な御家人が滅ばされた。
その中から勢力を伸ばしてきたのが、伊豆出身の北条氏である。1203年、頼朝の妻政子(1157~1225)の父である北条時政(1138~1215)は、将軍頼家を廃して、弟の実朝をたて、みずからも政所の長官となった。この地位はまた執権と呼ばれた。やがて時政の子義時(1163~1224)が幕府の実権を握ってから、その地位は北条氏一族の間で世襲されるようになった。
承久の乱: 京都の朝廷では、この間御鳥羽上皇の院政が行われ、それまで分散しがちであった広大な皇室領の荘園を再び上皇の手にまとめ、幕府と対決して朝廷の勢力を挽回しようとする動きが強まった。その中で1219年、将軍実朝が頼家の遺児公暁(1200~1219)に暗殺された事件をきっかけとして、朝幕関係は不安定となった。
1221(承久3)年、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、さらに北条氏の勢力の強化に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて、上皇はついに義時追討の兵をあげた。しかし、上皇側の期待に反して、東国の武士の大多数は北条氏のもとに集結して戦いにのぞんだ。幕府は、義時の子泰時(1183~1242)、弟の時房(1175~1240)らの率いる軍をおくり京都を攻めた。1ヵ月ののち、戦いは幕府の勝利に終わり、後鳥羽上皇の配流と仲恭天皇の廃位が行われた。これが承久の乱である。
乱後、幕府は皇位の継承に介入するとともに、京都には新たに六波羅探題を置いて、朝廷の監視、京都の内外の警備、および西国の統轄にあたらせた。また、上皇方についた公家や武士の所領3000余りヵ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命した。この乱によって、朝廷と幕府との二元的支配の様相は大きく変わり、幕府が優位に立つようになった。
執権政治: 承久の乱後の幕府は、義時の子の執権北条泰時の指導のもとに発展の時期を迎えた。泰時は執権を補佐する連署をおいて、北条氏一族中の有力者をこれにあてた。また1232(貞永元)年、泰時は貞永式目(御成敗式目)51ヵ条を制定して、広く御家人たちに示した。式目は頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武士社会での慣習・道徳に基づいて、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争を公平にさばく基準を明らかにしたもので、武家の最初の体系的法典となった。
幕府の勢力範囲を対象とする式目とならんで、朝廷の支配下にはなお律令の系統をひく公家法が、また荘園領主のもとでは本所法が、それぞれの効力を持っていた。しかし幕府勢力の発展につれて、公平な裁判を重視する武家法の影響は広がっていき、武家法が効力を持つ範囲も拡大していった。
合議制の採用や式目の制定など、執権政治の隆盛をもたらした泰時の政策は、孫の執権北条時頼(1227~1263)に受け継がれた。時頼は御家人の保護に努力し、その支持を固めたが、とくに裁判制度の確立に努めた。一方時頼は1247年、三浦泰村一族を滅ぼして、北条氏の地位を不動のものとし、やがて藤原将軍にかわる皇族将軍を迎えた。こうして執権政治は時頼のもとにさらに強化されるとともに、北条氏独裁の性格を強めていった。
武士の生活: 平安時代後期からこのころまでの武士は開発領主の系譜を引き、先祖以来の地に土着し、所領を拡大してきた。彼らは、その所領となっている荘園や公領の中心地を選んで館をかまえ、周囲には掘りや土塁をめぐらし住んでいた。下人や農民を使って耕作させて、みずから地頭などの現地の管理者として所領を支配し、農民から年貢を徴収して荘園領主におさめ、取り分として加徴米などの定められた収入を得ていた。
彼らは一族の子弟たちに所領を分け与える分割相続を原則としていたが、それぞれは一族の強い血縁的統制のもとに、宗家(本家)を首長とあおぎ、その命令に従った。首長である宗家の長を惣領、他を庶子と呼んで、このような一族中心の支配体制を惣領制という。
武士の生活は質素で、みずからの地位を守るために武芸を身につけることが重要視された、つねに犬追物・笠懸・流鏑馬や巻狩などの訓練を行った。武士の道徳は武勇を重んじ、主人に対する献身や、一門・一家の誉れをたっとぶ精神、恥を知る態度などを特徴としており、後世の武士道の起源となった。
武士の土地支配: 武士たちは、荘園・公領の支配者や、所領の近隣の武士との間で紛争を起こすことが多かった。とくに承久の乱後、畿内・西国地方にも多くの地頭が任命され、東国出身の武士が各地に新たな所領を広げていったから、紛争はますます拡大した。執権政治下の幕府が、公正な裁判制度の確立に努力したのも、こうした状況に対応するためであった。
地頭の支配権拡大の動きに直面した荘園・公領の領主たちもまた、幕府に訴えて地頭の動きをおさえようとした。しかし、現地に根をおろした地頭の行動を阻止することは事実上不可能に近かったので、紛争を解決するために、領主たちは地頭に荘園の管理一切をまかせ、定額の年貢の納入だけを請け負わせる地頭請所の契約を結んだり、さらには現地を地頭と折半して、土地や住民をそれぞれ分割して支配する下地中分の取決めを行うものもあった。幕府もまた、当事者間の取決めによる解決をすすめたので、荘園などの支配権は次第に地頭の手に移っていった。
第三節 幕府の衰退
蒙古襲来: 平氏政権の積極的な海外通交のあと、鎌倉幕府のもとでは日宋間の正式な国交は開かれなかった。しかし私貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われ、日本は宋を中心とする東アジア通商圏の中に組み入れられていった。
この間13世紀初め、モンゴル高原にチンギスハン(成吉思汗)が現われ、モンゴル民族を統一して中央アジアから南ロシアを征服した。次いでその後継者はヨーロッパ遠征を行い、また金を滅ぼして帝国を建設した。チンギスハンの孫フビライ(忽必烈)は、都を大都(北京)に移して国号を元と定める一方、高麗を服属させたのち、日本に対してもたびたび朝貢を強要してきた。
しかし、幕府の執権北条時宗(1251~1284)はこれを退けたので、元は徴発した高麗の軍勢をも合わせて、1274年、まず対馬・壱岐を犯してあと、大挙して九州北部の博多湾に上陸した。幕府は九州地方に所領を持つ御家人を動員して、これを迎え討った。元軍の集団戦法や優れた兵器に対して、日本軍の一騎打ち戦法はあまり効果を上げず、日本軍は苦戦した。しかし元軍も損害が大きく、たまたま起った大風雨にあってついに退いた。
得宗専制政治: 蒙古の襲来を防ぐために、全国の荘園・公領内の御家人以外の武士をも動員できる権利を朝廷から獲得するとともに、これを機会にとくに西国一帯に幕府勢力を強めていった。
すでに執権時朝の時代に確立した北条氏の優位は、幕府の支配権が全国的に強められていく中でさらに拡大し、中でも家督を継ぐ得宗の勢力が強大となった。それにつれて得宗家の家来である御内人と、本来の御家人との対立も激しくなり、得宗の子北条貞時(1271~1311)の代になると1285年に有力御家人の安達泰盛(1231~1285)らは御内人を代表する内管領平頼綱に滅ぼされた。こうして幕府の実権は全く得宗の手に握られ、その絶対的権威のもとで、内管領をはじめ御内人が幕政を主導するようになった。全国守護の半ば以上は北条氏一門が占め、地頭もまた多くは北条の手に帰した。
社会の変化: 平安時代後期から形づくられてきた荘園と公領に基づく社会の体制は大きく変動しはじめていた。農業技術は発展し、畿内や西日本一帯では麦を裏作とする二毛作の田が増大して、草木灰などの肥料も利用され、牛馬の使用や農具の普及も一般農民の間に広がっていった。農民はまた副業として藍などを栽培し、絹布・麻布などを織ったりしては領主に納入していた。また、鍛冶・紺屋などの手工業者も多く、各地をまわり歩いて仕事をしていた。
荘園・公領の中心地や交通の要地、あるいは寺社の門前などには、商品や物資を売買する定期市が開かれた。これらの地方の市場では、その地方の特産物や米などが売買され、中央から織物や工芸品などを運んでくる行商人も現れた。京都・奈良・鎌倉などの都市には高級品専門の手工業者や商人が集中して栄え、定期市のほかに常設の小売店も見られるようになった。これらの商工業者たちは、すでに天皇や貴族・大寺院などのもとに同業者の団体である座を結成し、保護者の権威に頼って、売買や製造についての特権を認められていた。
当時、売買の手段としては、米などの現物にかわって貨幣が多く用いられるようになっていたが、その際使用されたのは、日宋貿易によって多量に輸入された宋銭であった。遠隔地の取引きには為替が用いられるようになり、金融機関としては高利貸業者の借上も多く現れた。荘園の年貢も貨幣で納められるようになった。
一方、農村では地頭や荘園領主の圧迫や非法に対抗する農民の動きも活発となり、集団的な逃亡も多くなった。畿内やその周辺では、荘園領主の力が強いだけに、力を伸ばそうとする地頭や農民の活動は大きく制約を受けた。そのため御家人に限らず、この地方でとくに目立って成長してきた新興武士たちも、武力に訴えて荘園領主に抵抗するようになった。これらの武士は当時悪党と呼ばれ、その動きはやがて各地に広がっていき、荘園領主や幕府を悩ますようになった。
幕府の衰退: 生産や流通経済の目覚しい発達、社会の大きな変化の中で、幕府は多くの困難に直面していた。このため、御家人たちの幕府に対する信頼感を動揺させることになった。また御家人の多くは、分割相続の繰り返しによって所領が細分化されたうえ、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏していたから、元の影響はいっそう大きかった。
幕府はその対策として、御家人の所領の質入れや売買を禁止し、1297(永仁5)年には永仁の徳政令を発布して、それまでに質入れ・売却した御家人領を無償で取戻させるという手段に訴えたが、効果はあがらなかった。
没落する中小の御家人が多く現れる一方では、経済情勢の転換をうまくつかんで勢力を拡大する武士も生まれ、とくに守護などの有力武士の中には、没落した武士を支配下に入れて大きな勢力を築くものも表われた。また、このころから武士社会の相続法も、分割相続からだんだんと単独相続に変化していくようになり、嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に完全に従属していった。それ以前に分立していた本家と分家の関係も相互に独立したものに変わり、惣領制は崩れはじめて、血縁的結合よりもむしろ地縁的結合が強まる情勢となってきた。このように御家人社会の動揺のさなかに、北条氏得宗の専制政治が強化されていったことは、御家人の不満をつのらせる結果となった。こうして幕府の支配は、危機を深めていった。
第四節 鎌倉文化
鎌倉文化: 政治や社会・経済の分野で公家の支配力が根強く残るなかに、地方の武士が鎌倉幕府の勢力を背景に、各地で徐々に実質的支配力を強めていくのがこの時代の大勢であった。このような時代の動きは文化の面にも強く反映していった。公家が文化の担い手となって伝統文化を引き続き栄えさせながらも、一方では武士や庶民に支持された新しい傾向の文化を生み出し、新文化は次第に成長し、やがて伝統文化を圧倒していくことになった。
新しい傾向の文化を生み出した背景は様々である。その一つは今まで農村にあって、素朴な中にも質実な生活を築いてきた武士が社会の中心になっていくことによって、その気風が文学や美術の中に自然に映し出されるようになったことである。もう一つは日宋間を往来した僧侶や商人らに加え、中国大陸の政情の変化による日本へ来た人が、海外の新しい要素を導入したことである。
鎌倉仏教: 12世紀後半からの時代の大きな転換によって、精神生活の面にも多くの新しい気運がもたらされた。中でも仏教は、それまでの祈祷や学問中心のものから、内面的な深まりを持ちつつ庶民など広い階層を対象とする鎌倉仏教へと変化していった。
その最初に現れたのが法然(1133~1212)であった。美作の武士の家に生まれ、天台の教学を学んだ彼は、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、死後平等に極楽浄土に往生できるという専修念仏の教えを説いて、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然の教えは京都の貴族だけでなく、武士や庶民の心をとらえて広まっていったが、一方では旧仏教側からの非難が高まり、法然や弟子たちは流罪などの迫害を受けることになった。
貴族の家に生まれた親鸞(1173~1262)も、この時、法然の弟子の1人として越後に流され、のちには関東地方に移って、長く地方の農村で思索と布教の生活を送った。親鸞は師法然の教えを一歩進め、煩悩の深い人間(悪人)こそが阿弥陀仏の救おうとする相手であるという悪人正機の教えを説いた。その教えは農民や地方武士の間に広まり、やがて浄土真宗と呼ばれる教団を形成していった。
ほぼ同じころ、古くからの法華信仰をもとに、浄土教に刺激されて新しい救いの道を開いたのが日蓮(1222~1282)である。安房の一漁村に生まれ、はじめ天台宗を学んだ日蓮は、やがて法華経を釈迦の正しい教えとして選び、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることによって救われると説いた。鎌倉を中心に、他宗を激しく攻撃しながら布教を進めた日蓮は、幕府によってしばしば迫害されたが、日蓮宗は関東の武士層を中心に発展していった。
当時の関東で武士の間に大きな勢力をふるっていたのは、禅宗であった。坐禅によってみずからを鍛練し、釈迦の境地に近づくことを主張する禅宗は、当時の中国で盛んで、12世紀末ころ宋にわたった天台の僧栄西(1141~1215)によって日本に伝えられ、のちに臨済宗の開祖とあおがれた。栄西以来、幕府は臨済宗を重んじ、宋から蘭渓道隆(1213~1278)・無学祖元(1226~1286)ら多くの禅僧を招き、鎌倉に建長寺・円学寺などの大寺を次々と建立していった。それは禅宗の厳しい修行が武士の気風にあっていたためであるが、海外の新文化を吸収しようとの意味もあったのである。
幕府との結びつきを強めた禅宗の中で、ただひたすら坐禅に徹せようと説き、山中にこもって曹洞宗を開いたのが道元(1200~1253)であった。貴族の家に生まれ栄西門下に学んだ道元は、さらに宋にわたって禅を学び、一切の余事をかえりみず、坐禅そのものを重視する教えを説いた。
このような新仏教に刺激され、旧仏教側も新たな動きを見せた。鎌倉時代の初めころ、華厳宗の高弁(1173~1232)は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力を注いだ。やや遅れて律宗の忍性(1217~1303)と叡尊(1201~1290)らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病人の救済・治療などの社会事業にも献身し、多くの人々に影響を与えた。また、旧仏教各宗のもとでは古くからの山岳宗教と結びついた修験道が広く行われた。
中世文学のおこり: 文学の世界でも新しい動きが始まった。武士の家に生まれた西行(1118~1190)は、出家して平安時代末期の動乱の諸国を遍歴しつつ、清新な秀歌を詠んで、歌集『三家集』を残した。また『方丈記』の作者の鴨長明(1153~1216)は、人間も社会も転変してすべてはむなしいと説いた。彼らはともに、この時代の初めに現れた中世的な隠者の文学の代表者である。
このころ貴族文学は、和歌の分野でその最後の輝きを表した。御鳥羽上皇の命で選ばれた『新古今和歌集』の撰者藤原定家(1162~1241)・藤原家隆(1158~1237)らが示した歌風がそれで、平安時代の和歌の伝統に学び、技巧的な表現を凝らしながら、観念的な美の境地を生み出そうとしている。こうした作風は上皇を中心とする貴族たちの間に広く受け入れられ、多くの優れた歌人が生まれた。武士の間にも定家に学んで、しかも万葉調の歌を詠み、その歌を『金塊和歌集』として残した将軍実朝をはじめ、作歌に励む人々が少なくなかった。
戦いを題材に、実在の武士の活躍ぶりを生き生き描き出した軍記物語は、この時代の文学の中で、最も特色があった。中でも平氏の興亡を主題とした一大叙事詩ともいうべき『平家物語』は最高の傑作で、琵琶法師によって平曲として語られ、文字を読めない人々にも広く親しまれた。
平安時代後期以来盛んであった説話文学にも、『古今著聞集』など多くの作品が生まれたが、この時代の末に出た吉田兼好(1283~1350)の『徒然草』は、著者の広い見聞と鋭い観察眼による随筆の名作として名高い。この書は親鸞・道元らの著作と合わせて、鎌倉時代の貴族やその周辺の人々の思索の深まりを示すよい例といえよう。
一方武家社会でも、政治の必要から学問への関心が起こり、北条実時(1224~1276)は武蔵金沢に金沢文庫を建て、和漢の書籍を集めた。また幕府の関係者は、源平争乱以来の幕府の歴史も『吾妻鏡』にまとめられた。
芸術の新傾向: 芸術の諸分野でも新しい傾向が起っていた。鎌倉時代の初め、まず新風を巻き起こしたのは彫刻の分野であった。源平の争乱によって焼失した奈良の諸寺の復興のために、奈良仏師の運慶・快慶らが、多くの優れた仏像や肖像の彫刻を作り出した。天平彫刻の伝統を受け継いで新しい時代の精神を生かした力強い写実性、豊かな人間味の表出が、彼らの作風の特色である。
建築では、平安時代以来の日本的な柔らかな美しさを持つ和様が広く用いられていたが、鎌倉時代には新たに大陸から大仏様と禅宗様が伝えられた。大仏様は鎌倉時代初めの東大寺再建にあたって、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色として東大寺南大門が代表的遺構である。禅宗様は細かな部材を組み合わせて、整然とした美しさを表すのが特色で、鎌倉時代中期から円学寺舎利殿などの禅寺の建築に用いられた。また、大陸から伝えられた新様式の構築法の一部を和様に取り入れた折衷様も盛んとなった。
絵画では、平安時代後期に始まった絵巻物が、全盛期を迎えた。絵巻物ははじめ物語の挿絵から発達し、この時代には寺社の縁起、高僧の伝記などの形で、民衆を前にした説教にも利用されるようになった。
書道では、この時代に宋・元の書風が伝えられたが、平安時代以来の和様をもとにして青蓮院流が創始された。工芸の面では武士の成長とともに武具の製作が大いに起こり、刀剣の長船長光・岡崎正宗らが現われ、名作を残した。また、宋・元の強い影響を受けながら、尾張の瀬戸焼をはじめ、各地の陶器の生産が発展を遂げた。
練習問題
一、次の質問に答えなさい。
朝廷から征夷大将軍に任命された頼朝は、鎌倉に何を開
きましたか。
守護や地頭にはどんな人がなりましたか。
頼朝の死後、幕府の実権を握ったのは誰ですか。
北上氏が執権という役に着いたのはなぜですか。
武士の戦いを描いた文学を何といいますか。
「方丈記」や「徒然草」は物語ですか、随筆ですか。
鎌倉時代の建築には、装飾的美がありましたか、それとも構造的な美がありましたか。
鎌倉時代の文化の特徴は何ですか。
鎌倉時代の宗教は、厳しい戒律や学問を重要視したものでしたか。
10、日蓮がはじめたのは何宗ですか。
11、禅宗は、中国の宋王朝から伝えられたものですか。
二、次の略年表の( )に当て嵌まる出来事と人物を、下か
ら選んでください。
1、1192年( ・ )
2、1221年( ・ )
3、1232年( ・ )
4、1274年( ・ )
北上時宗 北上泰時 源頼朝 後鳥羽上皇
元軍 貞永式目 征夷大将軍 承久の乱
三、鎌倉文化について、次の表の( )に当て嵌まる文字を
書き入れなさい。
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軍 記 物
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「( )物語」
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随 筆
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「( )記」・鴨長明
「( )草」・吉田兼好
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宗 教
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( )宗・( )然
浄土( )宗・( )鸞
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四、課題研究
鎌倉幕府の成立・発展の歴史において、武家社会の形成
という点から見てどのような意味を持っているか。
第五章 武家社会の成長
第一節 室町幕府の成立
建武の新政: 鎌倉中期以後、皇室では後嵯峨法皇の死後、後深草上皇の流れである持明院統と、亀山天皇の流れである大覚寺統にわかれ、皇位や皇室領荘園の相続をめぐる争いが続いていた。14世紀初め、この紛争の調停に乗り出した幕府は、両統が交代で皇位につく方式を定め、朝廷の政治に介入するようになった。
このような情勢の中で、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、親政を推し進め、記録所の再興など意欲的な政治を行った。このころ幕府の得宗専制政治に対する御家人の反発が次第に高まり、また、畿内近国の悪党などの動きも依然活発であった。この状況を見た後醍醐天皇は討幕の計画を進めたが、1324年幕府側に漏れて失敗した。その後もなお天皇は討幕の意志を捨てず、1331(元弘元)年挙兵を企てたが失敗し、天皇は隠岐に流され、持明院統の光厳天皇が即位した。
しかし、後醍醐天皇の皇子護良親王(1308~1335)や楠木正成(1294~1336)らが、畿内の新興武士などの反幕勢力を結集して蜂起し、幕府軍と戦った。やがて天皇も隠岐を脱出し、天皇の呼び掛けに応じて、播磨の赤松氏、肥後の菊池氏など各地方の武士で討幕に立ち上がるものも次第に多くなっていった。幕府軍の大将として反乱鎮圧のために派遣されていた足利尊氏(1305~1353)はこのような状況を見て、幕府に背いて六波羅探題を攻め落とした。また関東では新田義貞(1301~1338)が幕府の本拠地鎌倉に攻め込み、北条高時(1303~1333)以下の北条氏一族を滅ぼした。こうして約150年間続いた鎌倉幕府は1333年ついに滅亡した。
後醍醐天皇は、幕府が滅びると京都に帰り、新しい政治を行った。天皇が目指した政治の目標は、幕府も院政も摂生・関白も否定して、天皇親政の理想を実現することにあった。この天皇の政治を建武の新政という。
新政府は、中央最高機関としての記録所や、幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所などを設置し、諸国には国司と守護を併置し、天皇親政の政治機構を整えた。しかし政府の内部では、討幕の功労者足利尊氏と護良親王の対立が激しかった。護良親王派の北畠顕家が天皇の皇子を奉じて奥州に陸奥将軍府をつくると、尊氏の弟直義(1306~1352)も同じように皇子を奉じて関東を管轄する鎌倉将軍府をつくった。これらはいずれも小幕府的な存在で、天皇の理想とは相容れないものであった。
また、天皇は徹底した親政の実現を目指し、今後の土地所有権の変更などは、天皇の綸旨による裁断を必要とするという法令を打ち出すなどした。これらの新政権は、当時武士の社会につくられていた慣習を無視していたために、多くの武士の不満と抵抗を引き起こし、また政務の停滞による社会の混乱を招いた。
このような形勢の中で、密かに幕府の再建を目指していた足利尊氏は、1335年、北条高時の子時行が関東で反乱を起こしたのを機会に、その討伐を名目として鎌倉にくだり、新政権に反旗をひるがえした。
南北朝の動乱: 1336(建武3)年、京都を制圧した尊氏は持明院統の光明天皇をたてて、後醍醐天皇に譲位をせまり、幕府を開く目的のもとに、政治の当面の方針を明らかにした建武式目を発布した。ここに建武の新政は、わずか3年たらずで崩壊した。
一方後醍醐天皇は、南方の吉野の山中に逃れ、皇位の正統が自分にあることを主張した。この結果、吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が、それぞれ異なった年号を用いて約60年にわたり両立し、これをめぐって全国各地で激しい戦いが展開された。
南朝側では、動乱のはじめに楠木正成が討死し、東北地方から救援に駆けつけた北畠顕家、さらに仁田義貞も敗れるなど形勢は不利であったが、北畠親房(1293~1354)らが中心となって、東北・関東・九州などに拠点を築いて抗戦を続けた。北朝側では、1338年尊氏が正式に征夷大将軍任ぜられ、弟の直義と政務を分担し、幕府は順調な滑り出しを見せた。
しかし、この兄弟の協調も長くは続かなかった。直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とする勢力との利害が対立し、ついに1350年幕府は分裂し、中央官僚と地方の守護のほとんどを巻き込んだ争乱に突入した。乱後も両派の抗争は続き、尊氏派・直義派・南朝勢力の三つの勢力が離合集散を繰り返し、動乱はいっそう長期化した。
このように中央の権利が分裂し、動乱が全国化・長期化した背景には、地方武士団の血縁的結合から地縁的結合への転換、さらにはその支配を揺るがす新しい農村の共同体の形成という大きな社会的変動があった。各地の武士は、中央権利の分裂を利用し、それぞれの地域で自分の立場が有利になることを求めて、互いに激しく争ったのである。
室町幕府: 長い間続いた南北朝の動乱も、尊氏の孫足利義満(1358~1408)が将軍になるころには次第に治まり、幕府はようやく安定の時を迎えた。義満は1392年、南朝側に平和を呼びかけ、南北朝の合体を実現して、約60年の長期にわたる内乱に終止符を打つことに成功した。それだけでなく、戦乱によって荘園を奪われ経済力を失った公家が、その地位を低下させていくと、朝廷が長い間保持していた権限を、幕府は次第に吸収していった。義満は、全国の商工業の中心であり政権の所在地であった京都の市政権、諸国に賦課する段銭などの徴収権を吸収し、全国的な統一政権としての幕府を確立した。すでに義満は、1378(永和4)年に京都の室町に壮麗な邸宅(花の御所)をつくり、ここで政治を行ったのでこの幕府を室町幕府と呼ぶようになった。
幕府の機構も義満の時代にほぼ整えられた。新しく設けられた管領は、大きな権限を与えられ、政所などの中央諸機関を統轄するとともに、将軍の守護に対する命令も管領を通して行われた。管領は、足利氏一門の有力守護である細川・斯波・畠山の3氏(三管領)から任命された。このようにこれらの大名は、幕府権力の中枢を占め、重要政務の決定など、幕政の運営にあたった。
また幕府は、将軍の権力を支える軍事力の形成にもつとめ、古くからの足利氏の家臣や、守護の一族、有力な地方武士を集めて、奉公衆と呼ばれる直轄軍を編成した。奉公衆は、普段は在京して将軍の護衛にあたったが、御料所と呼ばれる諸国に散在していた将軍の直轄領の管理をゆだねられ、守護の動向を牽制する役目もつとめた。義満は、このように幕府の体制をかためると、動乱の中で強大化した守護の統制をはかり、その勢力の削減につとめた。
幕府財政は、御料所からの収入、有力守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などでまかなわれた。そのほか、京都で高利貸を営み、多額の利益を上げていた土倉や酒屋に課税した倉役・酒屋役、交通の要所に関所を設けて徴収した関銭・津料、金融活動を行う京都五山の禅院への課税や、日明貿易によって利益などもその収入源としていた。
幕府は、地方機関として鎌倉府・九州探題などを設置した。尊氏は、鎌倉幕府のあった関東をとくに重視し、その子基氏(1340~1367)を鎌倉公方として鎌倉府をひらかせ、関東8ヵ国に伊豆・甲斐を加えた10ヵ国の支配を任せた。鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、権限も大きかったため、やがて将軍に反抗するようになり、しばしば幕府と衝突した。
守護大名と国人一揆: 動乱の中で地方武士の力が増大してくると、これらの武士を統轄する役割を与えられた守護が、幕府体制の重要な担い手として登場してきた。幕府は、動乱の中で地方武士を組織させるために、守護の権限を大幅に拡大した。とくに半済令は、国内の荘園や公領の年貢の半分を軍費調達のために徴発し、これを武士たちにわけ与える権限を守護に認めたもので、その発布の効果は大きかった。守護は、これらの権限を利用して国内の荘園や公領を侵略し、これを武士たちにわけ与え、彼らを自分の統制のもとにおいていった。このように守護の力が強くなると、荘園や公領の年貢の徴収を守護に請け負わせる守護請も盛んに行われるようになった。また守護は、それぞれの国の国衙の機能をも吸収して、一国全体に及ぶ地域的支配権を確立していった。このような守護を鎌倉幕府の守護と区別して守護大名と呼び、守護大名がつくりあげた支配体制を守護領国制という。
ところで、この守護大名の領国支配の権限は、基本的には幕府から与えられたものであり、また当時国人と呼ばれた地方土着の武士には、なお自立の気風が強く、守護大名が彼らを家臣化していくのには多くの困難があった。守護大名の力が弱い地域では、しばしば国人たちは自主的にお互いの紛争を解決したり、力を付けてきた農民を支配するために一揆を形成した。これを国人一揆という。この国人一揆は、その参加者が守るべきことを定めた規則を作成し、その規則には、参加者が一揆の内部ではみな平等であること、一揆の決定が多数決で行われることを記したものが多く見られる。このような国人たちは、一致団結することによって、自主的な地域権利を作り上げ、守護大名の上からの力による支配にもしばしば抵抗したのである。
倭寇と勘合貿易: 南北朝の動乱に続いて、室町幕府がその権力を確立していく14世紀後半から15世紀にかけて、日本だけでなく東アジア世界の情勢も大きく変わり、そこから新しい国際関係が形成された。
このころ、倭寇と呼ばれた日本人を中心とする海賊集団が朝鮮半島や中国大陸の沿岸で猛威をふるっていた。倭寇の主要な根拠地は、壱岐・対馬・肥前松浦地方などであった。倭寇は、朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり、米や大豆などの食料を奪うなど略奪をほしいままにした。倭寇の侵略に悩まされた高麗は、日本に使者をおくって倭寇の禁止を求めたが、日本が内乱中であったため成功しなかった。
中国では、1368年漢民族の王朝である明が建国された。明は伝統的な中国を中心とする国際秩序の回復を目指し、明との通交を近隣の諸国に呼びかけた。日本にも、通交と中国沿岸で活動している倭寇の禁止を求めてきた。国内の統一を完成した義満は積極的にこれに応じ、1401年、明に使者を派遣して国交を開いた。しかし、このような明を中心とする国際秩序の中で行われた日明貿易は、日本国王が明の皇帝へ朝貢し、それに対する返礼という従属の形式をとらなければならなかった。
遣明船は、明から交付された、勘合と呼ばれる証票を持参することを義務づけられた。この勘合貿易は、4代将軍義持(1386~1428)が朝貢形式に反対して一時中断したが、6代将軍義教(1394~1441)の時に再開された。この朝貢形式の貿易は、滞在費・運搬費などすべて明側が負担したから、日本側の利益は大きかった。とくに大量にもたらされた銅銭は、日本の貨幣流通に大きな影響を与えた。しかし16世紀半ば、勘合貿易は断絶した。
1392年、朝鮮も通交と倭寇の禁止を日本に求め、義満もこれに応じたので両国の間に国交が開かれた。日朝貿易は、明との貿易と違って、はじめから幕府だけでなく、守護大名・豪族・商人なども参加して盛んに行われたので、朝鮮側は、対馬の宗氏を通して通交についての制度を定め、貿易を統制した。朝鮮からの主な輸入品は織物類で、とくに木綿は、当時日本では生産されていなかったので国内の需要が多く、大量に輸入され、人々の生活様式などに大きな影響を与えた。しかし、この日朝貿易も1510年、三浦の乱が起こってから次第に衰えていった。
第二節 幕府の衰退と庶民の台頭
惣村の形成と土一揆: 鎌倉時代後期、近畿地方やその周辺に作られた新しい農村の形は、南北朝の動乱の中で次第にはっきりその姿をあらわしはじめ、各地方に広がっていった。
これらの村は、加地子という地代をとる地主になりつつあった名主たちだけでなく、新しく成長してきた小農民をもその構成員とし、村の神社の祭礼や農業の共同作業などを通して、次第にその結合を強くしていった。この村は寄合という村民の会議の決定に従って、大人・沙汰人などと呼ばれる村の指導者によって運営されたが、惣百姓と呼ばれた村民はみずからが守るべき規約である惣掟(村法)を定めたり、村内の秩序を自分たちで維持するために村民が警察権を行使することもあった。このような自立的・自治的な村を惣とか惣村と呼ぶが、この惣村は、農業生産に必要な山や野原などの共同利用地を確保するとともに、灌漑用水の管理も行うようになった。また領主へ納める年貢などを惣村がひとまとめにして請け負う村請も次第に広がっていった。
さらに、このような強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、不法を働く代官の免職、水害やひでりの被害による年貢の減免を求めて一揆を結び、訴訟をするために領主のもとに大挙して押し掛けたり、要求が認められない時は、全員が耕作を放棄し他領や山林に逃げ込んだりする実力行使をしばしば行った。しかも、これらの惣村はそれぞれの領主を異にする荘園の枠を超えて、広く周辺の村と連合し、また村の指導者の中には、守護大名などと主従関係を結んで武士化するものが多く現れたため、領主の支配は次第に困難になっていった。
この惣村を母胎とした農民勢力が、大きな力となって中央の政界に衝撃を与えたのが、1428(正長元)年の正長の徳政一揆である。この年の8月、まず近江の運送業者の馬借が徳政を要求して蜂起し、ついで京都近郊の惣村の結合をもとにした土一揆が徳政を要求し、京都の酒屋・土倉などを襲って、売買・貸借証文を奪った。このころ、農村には土倉などの高利貸資本が深く浸透していたため、この徳政一揆は近畿地方やその周辺に広がり、各地で実力による徳政実施行動を展開した。
ついで1441年、数千の土一揆が京都を占領して「代始の徳政」を要求したため、ついに幕府は徳政令を発布した。この後も土一揆はしばしば徳政を求めて各地に蜂起し、私徳政を行うとともに徳政令の発布を要求し、幕府も徳政令を乱発するようになった。
幕府の動揺と応仁の乱: 義満のあとを継いだ、将軍義持時代の幕府政治は、将軍と有力大名の勢力均衡が保たれ、比較的安定していた。しかし、6代将軍に就任した義教は、幕府における将軍権利の強化を狙って、守護大名の統制を厳しくし、将軍に服従しないものをすべて力で抑えようとした。そのため幕府と長らく対抗関係にあった鎌倉府との間が決裂し、1438年義教は関東へ討伐軍をおくり、翌年鎌倉の足利持氏(1398~1439)を討ちほろぼした。さらに義教は専制政治を強行したため政治不安が高まり、ついに1441年、処罰をおそれた有力守護赤松満祐(1373~1441)は義教を殺害した。やがて赤松氏は幕府軍に討伐されたが、これ以後、将軍の権威は大きく揺らいでいった。
このような将軍権力の弱体化に伴い、幕府政治の実権が有力大名に移っていくなかで、約1世紀におよぶ、戦国時代の口火を切った応仁の乱が起こった。幕府の管領家畠山・斯波両氏の家督相続をめぐる争いと、8代将軍義政の弟義視と義政の妻日野富子(1440~1496)のおす子義尚(1465~1489)との将軍家の家督相続争いがからみ、当時、幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元(1430~1473)と山名持豊(1404~1473)が、それぞれを支援して対立は激化し、1467年、ついに両軍の戦いが始まった。
はじめ戦いは京都を主戦場にしたため、町は戦火に焼かれ荒廃した。やがて戦いは地方へ広がり、各地で激しい戦いが展開された。応仁の乱は1477年、戦いにつかれた両軍の間に和議が結ばれて、一応終止符が打たれたが、この乱により将軍の権威はまったく失われ、争乱はその後も地域的争いとして全国に広がっていった。そしてこの争乱の中で、幕府体制・荘園制をはじめとする、もろもろの古い秩序が揺り動かされ、破壊されていった。
応仁の乱で在京して戦った守護大名の領国では、在国して戦った守護代や有力国人が次第に力を伸ばし、領国の実権は次第に彼らに移っていった。また地方の国人たちは、この混乱の中で自分たちの権益を守ろうとして、しばしば国人一揆を結成した。1485年、南山城地方で両派に分かれ争っていた畠山氏の軍を国外に退去させた山城国一揆は、その代表的なものであり、8年間にわたり一揆の自治的支配を実現した。このように、下のものの力が上のものの勢力を凌いでいく現象が、この時代の特徴であり、これを下剋上といった。
産業の発達: 室町時代の産業は、一般民衆の生活と結びついて発展した。この時期の農業の特色は、耕地面積を大きく増やすことが困難であったため、土地の生産性を向上させる集約化・多角化が進められたことであった。灌漑や排水施設の整備・改善により、二毛作は各地に広まり、水稲の品種改良も進み、早稲・中稲・晩稲の作付けも普及し、各地の自然条件に応じた稲が栽培されるようになった。
鍬・鋤・鎌などの鉄製農具や牛馬は鎌倉期より更に普及し、肥料も刈敷・草木灰などとともに下肥が広く使われるようになって、地味の向上・収穫の安定化が進んだ。また手工業の原料として、桑・漆・藍・茶などの栽培も盛んになり、農村加工業の発達により、これらが商品として流通するようになった。このような生産性の向上は、農民を豊かにし、物資の需要を高め、商品の生産・流通を盛んにした。
この時代、手工業者の同業組合である座の数は飛躍的に増加し、多種にわたる生産部門に手工業者の座が登場した。これらの座は、公家・寺社に保護され、それに奉仕するというこれまでの隷属関係をかえて、次第に保護をうけるかわりに営業税を納める形となり、注文生産や市場目当ての商品生産も行うようになった。
またこれら手工業者の座は、京都・奈良を中心とする近畿地方だけではなく、全国的に結成されるようになり、その地方の特色を生かして特産品を生産するようになった。また、製塩のための塩田も、ほとんど人工を加えない自然浜から、堤防によって外部の海を閉ざす入浜塩田への移行が伊勢地方などに見られ、製塩設備も充実した。
商業の発達: このように農業や手工業の発達により、地方の市場もその数と市日の回数を増していき、月に3回開く三斎市から、応仁の乱後は6回開く六斎市が一般化した。また振売りと呼ばれた行商人もその数が増加していき、これらの行商人の中では、京都の大原女などで知られるように女性の活躍が目立った。都市では見世棚を構えた常設の小売店も次第に増えるとともに、京都の米場・淀の魚市などのように、特定の商品だけを扱う市場も生まれた。
商人の座も手工業者の座と同じように、その種類や数が著しく増えた。座の構成員である座衆は公家や寺社などに座役として営業税を納めた。しかし、15世紀以後、次第に座に加わらない新興商人が増え、両者の間に売買の権利をめぐる対立が起こるようになった。このように商品経済が盛んになると、貨幣の流通が著しく増え、年貢を貨幣で納入する銭納も一般化し、また遠隔地取引の拡大とともに現金輸送にかわって為替の利用も多くなった。
貨幣経済の発達は金融業者の活動を促した。当時、酒屋などの有力な商工業者は、多くの土倉と呼ばれた高利貸業を兼ねるものが多く、酒屋・土倉は都市住民だけでなく、農村でも積極的に貸付けを行い、巨富をたくわえた。幕府は、京都の酒屋・土倉を保護・統制するとともに、営業税を徴収した。
地方産業が盛んになると遠隔地取引も活発になり、海・川・陸の交通路が発達し、交通の要地には問屋が置かれ、多くの地方都市が繁栄した。また多量の物資が運ばれる京都・奈良への輸送路では、馬車・車借と呼ばれる運送業者が活躍した。
第三節 室町文化
室町文化: 室町時代には、政治的・経済的に公家勢力を圧倒した武家勢力が、文化的にもその担い手として登場し、禅宗の影響を強く受けた武家文化が、伝統的な公家文化と融合しながら、惣村や都市の民衆とも交流して広い基盤を持つ特色ある文化を生み出した。
また、大陸文化と伝統文化、中央文化と地方文化、貴族文化と庶民文化などの広い交流に基づく文化の融合も進み、その成熟の中から、次第に民族的文化ともいうべきものが形成されていった。今日、日本の伝統文化を代表するものとされる能・狂言・茶の湯・生け花などの多くは、この時代に中央・地方を問わず、公家・武家・庶民の別なく愛好され、その形を整え、基盤を確立していった。
まず南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化が生まれ、ついで将軍義満の時代に北山文化が、将軍義政の時代に東山文化が形成されたが、とくに北山・東山文化は室町時代の二つの頂点を成している。
南北朝文化: 南北朝時代には、全国的な激しい動乱が続く
中で、時代の転換期に高まった緊張感を背景に、歴史書や軍記物語などがうみだされた。歴史書には、承久の乱を中心に、源平争乱以後の歴史を公家側の立場から記した『増鏡』などがある。
軍記物語では、南北朝の動乱の全体像を生き生きと描いた武家の歴史叙事詩である『太平記』が成立した。この『太平記』は、早くから人々に朗読・暗誦されて普及し、のちには庶民文化にも大きな影響を与えた。そのほか、軍記物語には、足利政権成立の過程を比較的史実に忠実に描いた『梅松論』などがある。また、公家・武士を問わず広く連歌が流行し、能楽も愛好されて多くの人々を集め、上演された。
北山文化: 室町時代の文化は、まず武家政権を確立した3代将軍義満の時代に開花した。義満は京都の北山に壮麗な新邸を造ったが、そこに建てられた金閣の建築様式が、伝統的な寝殿造風と禅宗寺院の禅宗様を折衷したものであり、その文化の特徴をよくあらわしているので、この時代の文化を北山文化と呼んでいる。
鎌倉時代、武家社会の上層に広まった臨済宗は、夢窓疎石(1275~1351)が出て将軍足利尊氏の厚い帰依をうけ、幕府の保護のもと大いに栄えた。禅僧たちによる中国文化の影響の強い文化が生まれ、武家文化の形成にも大きな影響を与えた。禅僧たちには、中国からの渡来僧、中国で学んだ留学僧が多く、彼らは禅だけでなく、禅の精神的境地を具体化した水墨画・建築様式などを広く伝えた。特に禅僧たちの間で、宋学の研究や漢詩文の創作が盛んになり、また彼らは、幕府の政治・外交顧問として活躍したり、禅の経典・漢詩文集などを出版するなど、中国文化の輸出に大きな役割を果たした。
現在、伝統芸術として盛んに演じられている能もまた、北山文化を代表するものであった。古く神事芸能として出発した猿楽や田楽は、色々な芸能を含んでいたが、その中から次第に歌舞・演劇の形をとる能が発達していった。このころ寺社の保護をうけて座を結成した能を演ずる専門的芸能集団があらわれ、能は各地で盛んに興行されるようになった。能楽師のうち、大和猿楽四座の観世座にでた観阿弥(1333~1384)・世阿弥(1363~1443)父子は、将軍義満の保護を受け、洗練された芸の美を追求して、芸術性の高い猿楽能を完成した。
東山文化: 北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化の中に取り込まれていき、新しい独自の文化として広く根づいていった。
将軍義政は、応仁の乱後、京都の東山に山荘を造り、そこに義満にならって 銀閣を建てた。この時期の文化は、東山山荘に象徴されるところから東山文化と呼ばれる。この文化は、禅の精神に基づく簡素さと、伝統文化の幽玄・わびを精神的な基調としていた。銀閣の下層および東求堂同仁斎にみられる書院造は、近代の和風住宅の様式のもとを成すものであった。書院造の住宅や禅僧様の寺院には、また同じように禅の世界の精神で統一された庭園が造られた。岩石と砂利を組み合わせて象徴的な自然を作り出した枯山水は、その代表的なものであり、この様式の名園として、竜安寺・西芳寺などの庭園が残されている。
また新しい住宅様式の成立は、座敷の装飾を盛んにし、掛軸・襖絵などの絵画、床の間を飾る生け花・工芸品をいっそう発展させた。この時期に雪舟(1420~1506)がでて、禅画の制約を乗り越え、日本的な水墨画様式を創造した。大和絵では、応仁の乱後、土佐光信がでて土佐派の基礎を固め、また狩野正信(1434~1530)・元信(1476~1559)父子は水墨画に伝統的な大和絵の手法を取り入れ、新しく狩野派をおこした。彫刻は、能の隆盛につれて能面の制作が発達し、工芸では金工の後藤祐乗(1440~1512)が出て活躍するとともに、蒔絵技術も大いに進んだ。
日本の伝統文化を代表する茶道(茶の湯)・花道も、この時代に基礎がすえられた。南北朝時代以後、各地で茶寄合が流行したが、村田珠光(1422~1502)がでて、茶と禅の精神の統一を主張し、茶室で心の静けさを求める侘び茶を創出した。生け花は座敷の装飾に組み込まれて立花様式が定まり、床の間を飾る花そのものを鑑賞する形が創られていった。
庶民文芸の流行: 室町時代には、民衆の地位の向上により、武士や公家だけでなく、民衆が参加し楽しむ文化が生まれたのも大きな特徴である。
能も上流社会に愛好されたもののほか、より素朴で娯楽性の強い能が各地に根をおろし、祭礼などのさい、盛んに演じられた。このころ、能のあい間に演じられるようになった狂言は、風刺性の強い喜劇として特に民衆にもてはやされた。狂言は、その題材を民衆の生活や民間伝承に求め、台詞も日常の会話が用いられており、当時の民衆の世界をよく反映している。
庶民にもてはやされた芸能としてはこれらのほか、古浄瑠璃・小歌などがあり、小歌の歌集として『閑吟集』が編集された。
連歌は和歌を上の句と下の句にわけ、一座の人々が次々に連作して五十句・百句にまとめた共同作品であった。応仁のころ宗祇(1421~1502)が出て正風連歌を確立し、『新撰莵玖波集』を撰集し、弟子たちと『水無瀬三吟百韻』を詠んだ。一方これに対し、山崎宗鑑(1465~1553)がより自由な気風をもつ俳諧連歌を作り出し、『犬筑波集』を編集した。連歌は、これを職業とする連歌師が各地を遍歴し普及につとめたので、地方の大名や武士だけでなく、民衆の間でも愛好されて流行した。
また、大いに流行した物語に御伽草子があった。御伽草子には、絵の余白に当時の話し言葉で書かれている形式のものが多く見られ、読むものであるとともに、話すものでもあり、また絵を見て楽しむものでもあった。
今日なお各地で盛んに行われている盆踊りも、この時代に姿をあらわした。祭礼や正月・盆の時などに、都市や農村で種々の意匠をこらした飾り物がつくられ、はなやかな姿をした人々が踊る風流が盛んに行われていたが、この風流と念仏踊りがむすびついて、次第に盆踊りとして定着した。これらの民衆芸能は、多くの人々が楽しみ、共同で行うことが一つの特色であり、当時、茶や連歌の寄合も多く催された。
新仏教の発展: 天台・真言などの旧仏教は、その保護者であった朝廷・公家の没落や荘園の崩壊によって、次第に勢力が衰えていった。これに対して鎌倉仏教の各宗は、武士・農民・商工業者などの信仰を得て、都市や農村に広まっていった。この時代、全国各地には信者の寄付によって数多くの寺が建てられ、その地域の人々の信仰の中心となっていった。
禅宗の五山派は、将軍・守護などの保護を受けて盛んに活動したが、幕府の衰退とともに衰えた。これに対し、より自由な活動を求めて地方布教を志した禅宗諸派は、地方武士・民衆の支持を受け各地に広がった。また朝廷との結びつきを深めて京都で勢力を拡大した浄土宗は、やがて東国へ布教活動を広げていった。
日蓮宗は、はじめ東国の地方武士を基盤にして発展したが、やがて京都へ進出し、公家や都市民の信仰を集めた。日蓮宗の布教は戦闘的であり、中国地方や九州地方に宗勢を伸ばした日親(1407~1488)は、他宗と激しい論戦を行ったためしばしば迫害をうけた。京都で財力をたくわえた商工業者には日蓮宗の信者が多く、彼らは京都を戦火からまもるため法華一揆をむすび、自衛のために戦ったこともあった。
浄土真宗は、農民のほか、各地を移動して生活を営む交通・商業・手工業者などにも広く受け入れられて広まっていった。特に応仁の乱のころ、本願寺の蓮如は精力的な布教活動をするとともに、阿弥陀仏のすくいを信じて念仏を唱えれば、誰でも極楽往生ができることを平易な名文章で説き、講を組織して惣村を直接つかんでいった。このようにして北陸・東海・近畿地方に広まった本願寺の勢力は、各地域ごとに強く結束し、これを本願寺が組織化したので強大なものとなった。そのため、農村の支配を強めつつあった大名権力と門徒集団が衝突し、各地で一向一揆がおこった。
第四節 戦国大名の登場
戦国大名: 応仁の乱にはじまった戦国の争乱の中から、各地方では、その地域に根をおろした実力のあるものが台頭してきた。16世紀前半、京都を中心とする近畿地方とその周辺では、なお室町幕府における主導権をめぐって、細川氏を中心とする内部の権利争いが続いていた。しかし、そのほかの各地では、みずからの実力でつくりあげた領国において、独自の支配を行う新しい地方権力がぞくぞくと誕生した。これが戦国大名である。
関東では、すでに応仁の乱の直前に鎌倉公方は、足利持氏の子成氏(1434~1497)の古河公方と将軍義政の弟政知(1435~1491)の堀越公方とに分裂し、関東官領上杉氏もまた山内・扇谷の両上杉にわかれ、国人たちを巻き込んで争っていた。この混乱に乗じて15世紀の末、京都からくだってきた牢人の北条早雲(1432~1519)は堀越公方を滅ぼして伊豆を奪い、ついで相模に進出し、その子氏綱(1487~1541)・孫氏康(1515~1571)の時には、後北条氏は関東の大半を支配する大名となった。
中部地方では越後の守護上杉氏の守護代であった長屋氏に、16世紀半ば景虎がでて、関東管領上杉氏を継いで上杉謙信(1530~1578)と名乗り、甲斐から信濃に領国を拡張した武田信玄(1521~1573)ともしばしば戦った。そのころ駿河・遠江には今川氏、越前には朝倉氏、尾張には織田氏らの強豪が並び立っていた。中国地方では守護大名として強盛を誇った大内氏が、16世紀の半ばに重臣陶晴賢に国を奪われ、さらに安芸の国人からおこった毛利元就(1497~1571)がこれにかわり、山陰地方の尼子氏と激しい戦闘を繰り返した。そのほか四国には長宗我部氏、九州には大友・竜造寺・島津などの諸氏、東北には伊達氏など、各地に有力大名が独自の分国を形成して争いをつづけた。彼らは島津・大友・今川・武田氏などの例をのぞき、ほとんどが守護代か国人から身をおこしたものである。このように古い権威が通用しなくなった戦国時代に、戦国大名として登場するためには、激しい戦乱でその地位や領主支配が危機にさらされた家臣の、さらにはその生活を脅かされた領国民の支持が必要であり、そのためには新しい軍事指揮者・領国支配者としての能力が強く求められた。
戦国大名は新しく服属させた国人たちとともに、各地で成長の著しかった地侍を家臣として抱えていくことにより、その軍事力を増強した。そして大名は、これらの国人や地侍にその地位を保障してやるかわりに、彼らの収入額を銭に換算した貫高という基準で統一的に把握し、その貫高にみあった一定の軍役を負担させた。これを貫高制といい、これによって戦国大名の軍事制度の基礎が確立した。このようにして大名は新しく多数の地侍を家臣団に組み入れ、彼らを有力家臣に預ける形で組織化した寄親・寄子制によって、鉄砲や長槍などの新しい武器を使った集団戦もできるようになった。
戦国大名の分国支配: 戦国大名は、絶え間のない戦いに勝ちぬき領国を安定させなければ、支配者としての地位を保つことができなかったので、富国強兵のための新しい体制をつくることにつとめた。大名は、家臣団統制や領国支配のために新しい政策を次々と打ち出したが、なかには領国支配の基本法である分国法(家法)を制定するものもあった。
これらの法典には、幕府法・守護法を継承した法とともに、国人一揆の取決めを吸収した法などが見られ、中世法の集大成的性格を持っていた。
戦国大名は、新しい征服地などで検地をしばしば行った。この検地によって荘園制の基礎であった名が制度的に否定された。また、農民の耕作する土地と年貢量などが大名のもとに登録され、大名の農民に対する直接支配の方向が強化された。
強大な軍事力を抱えた戦国大名にはそれに必要な武器などの物資の生産・調達が必要とされた。そのため大名は領国内に分散していた商工業者を新しく編成しなおし、有力な商工業者に彼らを統制させた。このように商工業者の力も集中できる体制を作った大名は、大きな城や城下町の建設、鉱山の開発、大河川の治水・灌漑などの事業を行った。
また戦国大名は、城下町を中心とした領国を一つのまとまりとした経済圏にするため、領国内の宿駅や伝馬の交通制度を整え、関所の廃止・市場の開発など商業取引の円滑化にも努力した。城下には、家臣の主なものが集められ、商工業者も集住して、次第に領国の政治・経済・文化の中心としての城下町が形成されていった。
都市の発展と町衆: 戦国時代には、農村手工業の発達や商品経済の発展によって、農村の市場や町が飛躍的に増加した。また大寺社だけでなく、新しく建てられた地方の中小寺院の門前町も繁栄した。特に浄土真宗の勢力の強い地域では、その寺院や道場を中心とした寺内町が各地に建設され、そこに門徒の商工業者が集住した。
これら寺内町などの新設の市場や町は、自由な商業取引を原則として、市座などを設けない楽市として存在するものが多かった。戦国大名は楽市令を出してこれらの楽市の特権を一部保障したり、領国の商品流通を盛んにするため、新しく楽市を開設したりした。
さらに、各地方の城下町と中央の京都などを結ぶ遠隔地商業が活発になり、港町や宿場町も繁栄し、大きな都市に発展していくものも多かった。これらの都市の中には、富欲な商工業者たちが自治組織を創って市政を運営し、商業都市本来の形を回復し、平和で自由な都市を作り上げるものもあった。日明貿易の根拠地として栄えた堺や博多、さらに摂津の平野、伊勢の桑名や大湊などがその代表的自由都市であった。また堺は36人の会合衆、博多は12人の年行司と呼ばれる豪商の合議によって市政が運営され、自治都市の性格をそなえた。
一方京都のような古い政治都市においても、経済力をたくわえた町衆と呼ばれる富欲な商工業者が自立の傾向を強めた。町衆は、居住する町ごとの団結を次第に強め、町組を結成した。そしてこれらの町衆の自治組織は、月行司と呼ばれる町衆の代表者によって運営された。
応仁の乱後、戦火で焼かれた京都の町は、これらの町衆によって復興された。祇園祭も町を母体とした町衆の手によって再興され、町衆の祭りとなっていった。また御伽草子や小歌などの民衆の文化は、これら町衆に広く愛好され、流行したものが多かった。
文化の地方普及: 応仁の乱により京都は荒廃したので、京都の公家などの文化人が地方の大名をたより、ぞくぞくと地方へくだった。地方の武士たちも中央の文化に強い憧れを持っていたため、積極的にこれを迎えた。とくに対明貿易で繁栄していた大内氏の城下町山口には、これらの文化人が多く集まり、儒学や和歌などの古典の講義が行われ、また多数の書籍の出版もなされた。儒学は、新興の大名たちにも為政者の必修の学問とされて積極的に受け入れられ、その政治思想にも影響を与えた。肥後の菊池氏や薩摩の島津氏は桂庵玄樹(1427~1508)を招いて儒学の講義を聴き、土佐でも南村梅軒が朱子学を講じて、南学の祖となった。
このように地方でも、これらの中央の文化を受け入れるとともに、特色ある地方文化を生み出す基礎が次第にできつつあった。関東では、15世紀中ごろ、関東管領上杉憲実(1410~1466)が足利学校を再興し、ここでは全国から集まった禅僧・武士に対して高度な教育が施され、多数の書籍の収集も行われた。
また一般の地方武士の間にも教育熱が高まり、このころすでに武士の子弟を寺院に預けて教育を受けさせる習慣ができていた。ここでは、『庭訓往来』や『貞永式目』などが教科書として用いられていた。戦国時代、ヨーロッパからキリスト教が伝えられ、宣教師たちにより熱心な布教が行われたが、彼らはキリスト教に対する日本人信者の理解の早さを、教育水準の高さによるものとしている。
都市の有力な商工業者たちも、その職業がら読み・書き・計算を必要とし、奈良の商人の中には『節用集』という辞書を刊行するものもあった。さらに村落の指導者層の間にも村の運営のため、読み・書き・計算の必要性が増して、農村にも次第に文字の世界が浸透していった。
練習問題
一、次の質問に答えなさい。
鎌倉幕府は、いつ滅びましたか。
後醍醐天皇は、建武の新政でどんな政治をしようと考えましたか。
南朝と北朝という二つの朝廷が対立する状態をおさめたのは誰ですか。
鎌倉時代の末頃から、朝鮮半島から中国にかけての海域を荒らしていた海賊は何と言われていますか。
義満が大きな利益を得た中国との貿易を何と言いますか。
応仁の乱は何年間続きましたか。
下剋上の社会というのはどのような社会ですか。
土一揆では、どんなところを襲いましたか。
京都の東山にある銀閣は誰が建てましたか。
10、現在の日本式住宅建築の元になっているのは、寝殿造
ですか、書院造ですか。
11、自然を象徴的に表した様式の庭を何といいますか。
12、狂言は主にどんなことを演じましたか。
二、次の各文を時代順に並べなさい。
足利義満が、勘合貿易をはじめた。
足利尊氏が、室町幕府をはじめた。
後醍醐天皇が、「建武の新政」をはじめた。
足利義満が、南北朝を合一した。
三、次の文に歴史的に誤りがあれば、その番号をつけなさい。
1、1467年、8代将軍・足利善政のとき、応仁の乱が起こり、
戦国時代が始まった。
戦国時代は、約200年間も続き、戦国大名による「下
剋上の社会」であった。
農民は、年貢を下げることなどを求めて、「農民一揆」
と呼ばれる反乱を起こすようになった。
1334年から1573年までの室町時代は、幕府の勢力が
強く、守護大名も御家人として従った。
四、課題研究
1、室町幕府は、鎌倉幕府に比べてどのような特色を示して
いるか。政治組織および財政収入での相違点をあげて説
明しよう。
2、中世の地方文化について、地域に見られる寺社の建立に
よる宗教活動や文化財、関係する文学作品、現存する伝
統芸能などを見てまとめてみよう。
第六章 幕藩体制の確立
第一節 織豊政権
ヨーロッパ人の東アジア進出: 日本が戦国時代の争乱に明け暮れていた15世紀後半から16世紀にかけて、ヨーロッパはルネサンスと宗教改革を経て、近代社会へ移行しつつあった。ヨーロッパ諸国は、その国力を海外へ向け、新航路の開拓、海外貿易の拡大、キリスト教の布教、さらに植民地の獲得を求め、世界的規模の活動を始めた。この結果、世界の諸地域が、ヨーロッパを中心として広く交流する大航海時代と呼ばれる時代に入った。
その先頭にたったのが、イベリア半島の王国スペインとポルトガルであった。スペインは、南北アメリカ大陸に植民地を広げ、16世紀半ばには、東アジアに進出してフィリピン諸島を占領し、マニラを拠点とした。ポルトガルは、インド西海岸のゴアを根拠地にして東へ進出し、中国のマカオを占領してアジアで貿易を行った。
当時、東アジア地域では、なお明が海禁政策をとり、私貿易を禁止していたが、環中国海の中国・日本・朝鮮・琉球・安南(ベトナム)・フィリピンなどの人々が、国の枠を超えて広く中継貿易を行っていた。そこにヨーロッパ人が、世界貿易の一環としての中継に参入することになった。
南蛮貿易とキリスト教: 1543年にポルトガル人をのせた中国船が九州南方の種子島に漂着した。これがヨーロッパ人の日本にきたはじめである。このとき、島主の種子島時尭(1528~1579)は、ポルトガル人の持っていた鉄砲を買い求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせた。これを契機に、ポルトガル人は毎年のように九州の諸港に来航し、日本との貿易を行った。またスペイン人も、1584年肥前の平戸に来航し、日本との貿易を開始した。
当時の日本では、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼び、この貿易を南蛮貿易といった。南蛮人は、鉄砲・火薬や中国の生糸などをもたらし、16世紀中ごろから飛躍的に生産が増大した日本の銀などと交易した。鉄砲は、戦国大名の間に新鋭武器として急速に普及し、足軽鉄砲隊の登場は、武士の騎馬戦を中心とする戦法をかえさせ、また防御施設としての城の構造も変化させた。
南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。1549年、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着し、大内義隆(1507~1551)・大友義鎮(1530~1587)らの大名の保護を受け、布教を開始した。
その後、宣教師はあいついで来日し、南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(神学校)などをつくり、熱心に布教につとめた。
織田信長の統一事業: 戦国大名の中で全国統一の願望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長(1534~1582)であった。1560年、信長は尾張に進入してきた今川義元(1519~1560)を桶狭間の戦いで破り、1567年には、美濃の斎藤氏を滅ぼし、肥沃な濃尾平野を支配下に置いた。信長は、美濃の稲葉山城を岐阜城と改名し、「天下布武」の印判を使用し、天下を自分の武力によって統一する意志を明らかにした。翌年信長は、信長の力を頼ってきた前将軍足利義輝(1536~1565)の弟義昭(1537~1597)をたてて入京し、義昭を将軍職につけて、全国統一の第一歩を踏み出した。
1570年、信長は姉川の戦いで近江の浅井氏と越前の朝倉氏の連合軍を破り、翌年には反抗した比叡山延暦寺を焼打ちにし、強大な宗教的権威と経済力を誇った寺院勢力を屈伏させた。1573年、信長は、将軍権力の回復を目指した足利義昭と対立して、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした。
1575年、信長は、三河の長篠合戦で鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼(1546~1582)の軍に大勝し、翌年近江に壮大な安土城を築きはじめた。
しかし、信長の最大の適は、石山本願寺を頂点にし、全国各地の浄土真宗寺院や寺内町を拠点にして信長の支配に反抗した一向一揆であった。信長は、1574年、伊勢長島の一向一揆を滅ぼし、翌年には越前の一向一揆を平定し、ついに1580年、石山(大坂)の本願寺を屈伏させることに成功した。
このようにして、信長は京都を抑え、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、1582年、毛利氏征討の出陣の途中、滞在した京都の本能寺で、家臣の明智光秀(1528~1582)に背かれて敗死した(本能寺の変)。
信長は、組織性と機動力とに富む強力な軍事力を作り上げ、優れた軍事指揮官として、次々と戦国大名を倒すだけではなく、伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し、関所の撤廃など、新しい支配体制をつくることを目指していた。信長は、全国一の経済力を持つ自治的都市として繁栄を誇った堺を武力で屈服させ直轄領として、畿内の高い経済力を自分のもとに集中させた。また安土の城下町に楽市・楽座令をだし、この町に来て住む商工業者に自由な営業活動を認めるなど、新しい都市政策を打ち出した。
豊臣秀吉の天下統一: 信長のあとを継いで、天下統一を完成したのは豊臣秀吉(1537~1598)である。尾張の農家に生まれた秀吉は、信長につかえて次第に才能を発揮し、信長の有力部将に出世した。秀吉は本能寺の変を知ると、対戦中の毛利氏と和睦し、1582年山城の山崎の合戦で明智光秀を討ち、翌年には、信長の重臣であった柴田勝家(1522~1583)を賤ヶ岳の戦いに破って、信長の後継者の地位を確立した。また同年秀吉は、水陸交通の要地で、寺内町として繁栄していた石山の本願寺のあとに壮大な大坂城を築きはじめた。ついで、1584年秀吉は、尾張の小牧・長久手の戦いで、織田信雄(信長の次男)・徳川家康軍と戦ったが、和睦した。
1585年には、秀吉は長宗我部元親(1538~1599)をくだして四国を平定するとともに、朝廷から関白に、翌年には太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられた。関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権を委ねられたと称し、惣無事(全国の平和)を呼びかけ、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の決定に任せることを強制した。
そして、1587年にはこの命令に従わず、九州の大半を勢力下においた島津義久(1533~1611)を征討し、降伏させた。さらに1590年には小田原の北条氏政(1538~1590)を滅ぼし、伊達政宗(1567~1636)ら東北地方の諸大名を服属させて、全国統一を完成した。秀吉は、信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事的征服のみに頼らず、強力な軍事力・経済力を背景に、伝統的支配権を利用して新しい統一国家を作り上げた。
豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、中央政府の組織の整備が十分行われなかった。腹心の部下を五奉行として政務を分掌させ、有力大名を五大老として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。
検地と刀狩: 豊臣政権が新しい体制を作り出すために打ち出した中心政策が、検地と刀狩であった。秀吉は新しく獲得した領地につぎつぎと検地を施行してきたが、天下統一の翌年の1591年、全国の大名に対し、その領国の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じた。
この検地帳は石高で統一することが求められ、この結果、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。そして、すべての大名の石高が正式に定まり、大名はその領地する石高にみあった軍役を奉仕する体制が出来上がった。この検地帳を作成するため、各地で統一した基準のもとに一斉に検地が行われた。これら秀吉が実施した検地を太閤検地という。
太閤検地は、土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町・段・畝・歩に統一するとともに、枡の容量も統一し、村ごとに田畑・屋敷地の面積・等級を調査してその石高を定めた。また太閤検地は、荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なり合う状態を整理し、検地帳には実際に耕作している農民の田畑と屋敷地が石高で登録された(一地一作人)。この結果、農民は自分の田畑の所有権を法的に認められることになったが、自分の持ち分の石高に応じた年貢などの負担を義務付けられることになった。
刀狩は、農民から武器を没収し、農民の身分を明確にする目的で行われた。荘園制下の農民は刀などの武器を持つものが多く、土一揆などではこれらの武器が威力を発揮した。秀吉は一揆を防止し、農民を農業に専念させるため、1588年刀狩令を出し、農民の武器を没収した。ついで1591年、秀吉は人掃令を出して、武士に召使われている武家奉公人が町人・百姓になること、また百姓が商売に従事することを禁止した。さらに翌年、関白豊臣秀次(1568~1595)が朝鮮出兵の武家奉公人や人夫確保のために出した人掃令に基づいて、武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの戸数・人数を調査し、確定する全国的戸口調査が行われた。このように、人掃令は身分を確定することになったので身分統制令ともいう。こうして検地・刀狩・人掃令などの政策によって、兵・町人・百姓の職業に基づく身分が定められ、いわゆる兵農分離が完成した。
秀吉の対外政策: 秀吉は、はじめキリスト教の布教を認めていたが、次第に秀吉の作り上げようとした国家体制にキリスト教が妨げになると考えるようになった。1587年、秀吉はキリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付していることなどを知り、まず大名らのキリスト教入信を許可制にした。ついで、バテレン(宣教師)追放令を出して宣教師の国外追放を指令した。1588年、秀吉は海賊取締令を出して倭寇などの海賊行為を禁止し、海上支配を強化した。そして京都・堺・長崎・博多の豪商らの東アジア諸国への渡航を保護するなど、南方貿易を奨励したので、キリスト教の取締は不徹底に終わり、キリスト教はなお各地に広がっていった。
16世紀後半の東アジアの国際関係は、中国を中心とする伝統的な国際秩序が明の国力の衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は、この情勢の中で日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序をつくることを志した。秀吉はマニラのスペイン政庁、台湾などに対し、服属と入貢を求めたが、それは秀吉のこの対外政策の表われであった。
1587年、秀吉は対馬の宗氏を通して朝鮮に対し入貢と明出兵の先導とを求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は出兵の準備を始め、肥前の名護屋に本陣をきずき、1592(文禄元)年、15万余りの大軍を朝鮮に派兵した。釜山に上陸した日本軍は、新兵器の鉄砲の威力などによってまもなく漢城をおとしいれ、さらに平壌も占領した。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗により、次第に戦局は不利になった。
1597年、秀吉は再び朝鮮に14万余りの兵をおくったが、日本軍は最初から苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死すると撤兵した。前後7年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。また国内的には、膨大な戦費と兵力を無駄に費やした結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。
桃山文化: 信長・秀吉の時代をその居城の地名ちなんで安土桃山時代とも呼び、この時代の文化を桃山文化という。この時代には1世紀に及んだ戦乱もおさまり、富と権利を集中した統一政権のもとに各地の経済・文化が交流し、また海外との往来も活発であった。
その開かれた時代感覚が文化のうえにも反映されて、新鮮味あふれた豪華・壮大な文化を生み出した。ここには新しく支配者となった武士や、戦争・貿易その他、時代の変動を利用して大きな富を得た豪商の気風とその経済力とが反映されている。また、これまで多くの文化をになってきた寺院勢力が信長や秀吉によって弱められたため、文化の面で仏教色がうすれ、現実的で力感ある絵画や彫刻などが多く製作された。
さらにポルトガル人の来航を機に西欧文化との接触が始まり、人々がこれを積極的に受容したことにより、この時代の文化は多彩なものとなった。
桃山美術: 桃山文化を象徴するのが城郭建築である。この時代の城郭は軍事的・政治的な理由から、それまでの山城と違って交通の便利な平地につくられ、重層の天守閣を持つようになった。安土城や大坂城・伏見城などは、天下統一の勢威を示す雄大・華麗なもので、城の内部には書院造を取り入れた居館が設けられた。内部の襖・壁・屏風には、金箔地に青・緑を彩色する濃絵の豪華な障壁画が描かれた。また新興勢力として登場した都市や庶民の生活・風俗などを題材に風俗画も盛んに描かれた。
障壁画の中心となったのは狩野派で、狩野永徳(1543~1590)は室町時代に盛んになった水墨画と日本古来の大和絵とを融合させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を持つ新しい装飾画を大成し、その門人狩野山楽(1559~1635)とともに多くの障壁画を描いた。海北友松(1535~1615)や長谷川等伯(1539~1610)らは、濃彩の装飾的作品とともに、水墨画にも優れた作品を残した。
町衆の生活: 新興の武将らとともに、京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する富裕な町衆も、この時代の文化のにない手であった。その一人である堺の千利休(1521~1591)は、茶の湯の儀礼を定め、茶道を確立した。利休の完成した侘茶の方式は簡素・閑寂を精神とし、華やかな桃山文化の中に異なった一面を生み出した。茶の湯は豊臣秀吉や諸大名の保護を受けて大いに流行し、茶室・茶器・庭園に優れたものがつくられ、また花道や香道も発達した。
庶民の娯楽としては、室町時代からの能があったが、17世紀初めに出雲阿国が京都で歌舞伎踊りを始めて人々にもてはやされ、やがてこれをもとに簡単なしぐさを加えた女歌舞伎が生まれた。また、琉球から渡来した三味線を伴奏楽器にして、操り人形を動かす人形浄瑠璃も流行した。堺の商人の高三隆達(1527~1611)が小歌に節付をした隆達節も市民に人気があり、盆踊りなども各地で盛んに行われた。
衣服は小袖が一般に用いられ、各階層によって模様や色彩に変化を付けた様々な服装が生まれた。男子は袴を着けることが多く、簡単な礼服として肩衣・袴を用いたが、女子は小袖の着流しが普通になり、男女ともに結髪するようになった。
南蛮文化: 南蛮貿易が盛んになり、宣教師の布教が活発になるにつれて、庶民の中にも、タバコを吸ったり、南蛮風の衣服を身につけるものが出てきた。宣教師たちは、天文学・医学・地理学など実用的な学問を伝えたほか、油絵や銅版画の技法をもたらし、日本人の手によって西洋画の影響を受けた南蛮屏風も描かれた。また金属製の活字による活字印刷術も宣教師によって伝えられ、印刷機も輸入され、ローマ字によるキリスト教文学・宗教書の翻訳、日本語辞書・日本古典の出版なども行われた。日本ではこれらの文化を積極的に受け入れ、今日なお衣服や食べ物の名には、その影響が残っているものがある。
第二節 幕藩体制の成立
江戸幕府の成立: かつて織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康(1542~1616)は、1590年、北条氏滅亡後の関東に移され、約250万石の領地を支配する大名となった。豊臣政権下では、五大老の筆頭の地位にあった家康は、秀吉の死後、地位が浮上した。
しかし、五奉行の一人石田三成(1560~1600)と家康の対立が表面化し、1600年、三成は五大老の一人毛利輝元(1553~1625)を盟主にして兵を挙げた(西軍)。対する東軍は、家康と彼に従う福島正則(1561~1624)・加藤清正(1562~1611)らの諸大名で、両者は関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
天下分け目の戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し、1603年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け、江戸も幕府を開いた。江戸時代の幕あけである。家康は、全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を、また国単位に国絵図と郷帳の作成を命じて、全国の支配者であることを明示した。
しかし、家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼(1593~1615)が依然大坂城におり、名目的に秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605年、家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579~1632)に将軍宣下をうけさせた。家康は駿府に移ったが実権は握り続け、ついに1614-1615年、大坂の役(冬の陣・夏の陣)で豊臣氏を攻め滅ぼした。
幕藩体制: 幕府は大坂の役直後の1615年に、大名の居城を一つに限り、さらに武家諸法度を制定して大名を厳しく統制した。家康の死後、1617年に2代将軍秀忠は、大名・公家・寺社に領地を与える確認文書を発給し、全国の土地領有者としての地位を明示した。また秀忠は1623年、将軍職を家光に譲り、大御所として幕府権利の基礎がためを行った。
1632年、秀忠の死後、3代将軍家光も肥後の外様大名加藤氏を処分した。さらに家光は1635年、武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。その中で、大名には国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代を義務づけ、妻子は江戸に住むことを強制された。こうして、3代将軍家光のころまでに、将軍と諸大名との主従関係は確立した。強力な領主権を持つ将軍と大名が土地と人民を統治する支配体制を幕藩体制という。
禁教と寺社: 幕府は、はじめキリスト教を放任していた。しかし、キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略を招くおそれを強く感じ、また信徒が信仰のために団結することのおそれから、1612年、直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国におよぼして信者に改宗を強制した。こののち幕府や諸藩は、宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など激しい迫害を加えた。多くの信者は改宗したが、一部の信者は迫害に屈せず、殉教するものがあとをたたなかった。
1637年から翌年にかけて島原の乱が起こった。この乱は飢饉の中で島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏とが領民に苛酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した農民の一揆である。天草四郎時貞(1621~1638)を首領にいただいて原城跡にたてこもった3万余りの一揆勢に対して、幕府は九州の諸大名ら約12万の兵力を動員し、ようやくこの一揆を鎮圧した。
幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根絶やしにするため、とくに信徒の多い九州北部などで絵踏を行わせた。また寺請制度を設けて宗門改めを実施し、仏教への転宗を強制するなどキリスト教に対して厳しい監視を続けていった。
幕府は寺院法度をだし、宗派ごとに本山・本寺の地位を保証して末寺を組織させ、1665年には宗派を超えた仏教寺院の僧侶全体を共通に統制するために諸宗寺院法度をだした。また同年、神社神職に対しても諸社禰宜神主法度を制定して統制した。
村の統制: 江戸時代の日本の主な産業は農業であり、それ以外でも漁業や林業のような生業が社会の生産を支えていた。幕府や藩は生産の担い手である百姓を、その生活の場である村を単位として支配した。秀吉以来の検地は、村相互の土地の出入りを無くし、村の範囲を確定した。村には名主・組頭(年寄)・百姓代の村方三役がおかれ、各家は五人組に編成されて、年貢納入や犯罪の防止などの連帯責任を負わされた。年貢は、田畑・屋敷にかかる本途物成(本年貢)と小物成(雑税)が基本であったが、石高に応じてかけられる高掛物や助郷役などの労役の負担も大きく、百姓の生活を圧迫した。これらの年貢の賦課は、村を単位として行われた。また百姓がキリスト教の信徒でない旨を檀那寺が証明する寺請制度が行われ、毎年宗門人別改帳が作成された。
幕府は、1643年に田畑永代売買禁止令、1673年には分地制限令を出し、百姓が勝手に耕地を売買することを禁止し、分割相続によって経営の規模が零細化するのを制限した。また、田畑勝手作りの禁令によって、本田畑に米・麦・粟などの穀類以外の商品作物の作付けを禁止した。1649年に出されたという慶安の御触書では、百姓に勤労と倹約を勧め、衣食住の全般にわたって細かく規制している。しかし、商品経済の波は次第に村に浸透していった。
都市の統制: 江戸時代の代表的な都市である城下町は、兵農分離の結果、集住させられた家臣団の武士と、武士の生活を成り立たせるために必要な町人(商人・職人)とからなっていた。城を中心に家臣達の武家屋敷がその周辺に建てられ、町屋敷や寺院がその周りを取り囲んだ。町人の住む地域は、武士が商人や職人を統制する必要から、呉服町・両替町・大工町・材木町などの町名が現在も残っているように、同業者を同一の地域に集住させる傾向にあった。
一般に都市では、町年寄が法令の伝達や人別改め、商人や職人の統制、税の徴収などの任にあたった。町年寄の下には各町に町名主がおり、町年寄を補佐して町政全般にあたった。
地主・家持は本町人で、宅地や屋敷を所有していたが、町人の多くは土地や屋敷を借りている地借・店借と呼ばれる人々で、町政に対する発言権はほとんどなかった。町人にも、屋敷にかけられる地子や営業税としての運上金・冥加金があったが、農民の年貢に比べれば軽いものであった。
また、幕府の直轄都市は全国の政治・経済の中心地として重視され、中でも江戸・大坂・京都は三都と呼ばれて、17世紀中ごろまでには世界でも有数の大都市に成長した。
身分秩序: 近世社会は身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治や軍事を独占し、苗字・帯刀のほか様々の特権を持つ支配身分で、将軍を頂点に大名・御家人などで構成され、主人への忠誠や上下の別が厳しく強制された。天皇家や公家、上層の僧侶・武士とならぶ支配身分である。被支配身分としては、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である諸職人、商業を営む商人を中心とする都市の家持町人の三つが主なものとされた。こうした身分制度を士農工商と呼んでいる。
このほか、一般の僧侶や神職をはじめ、修験者・陰陽師などの宗教者、芸能者など職業や居所による身分の区別が多数あった。その中で、最も下位におかれたのがえた・非人である。えた・非人呼称は中世から見られ、江戸幕府の身分支配のもとで蔑称として全国に広められた。えたは農業を行い、皮革製造やわら細工などの手工業もになったが、死牛馬の処理や行刑役をしいられた。また貧困や刑罰により非人となるものもあり、村や町の番人や清掃・乞食・芸能に従事した。
これらの諸身分は、武士の主従制、百の村、町人の町、職人の仲間など、団体や集団ごとに組織された。そして一人一人の個人は家に所属し、家や集団を通じてそれぞれの身分に位置づけられた。武士や有力な百姓・町人の家では、家長(戸主)の権限が強く、家の財産や家業は長男を通して子孫に相続され、その他の家族は軽んじられ、女性の地位は低いものとされた。
初期の外交: 1600年、オランダ船リーフデ号豊後に漂着した。当時、ヨーロッパでは毛織物工業の発達したイギリスと、16世紀後半にスペインから独立したオランダの二つの国が台頭し、国家の保護のもとにあいついで東インド会社を設立して、アジアへの進出をはかっていた。徳川家康は、リーフデ号の航海士ヨーステンと水先案内人のイギリス人アダムズとを江戸に招いて、外交・貿易の顧問とした。その後オランダは1609年に、イギリスは1613年に幕府から自由貿易の許可を受け、それぞれ肥前の平戸に商館をひらいた。また家康は朝鮮や琉球を介して明との国交回復を交渉したが、明からは拒否された。
家康はスペインとの貿易にも積極的で、スペイン領のメキシコとの通商を求め、京都の商人田中勝助を派遣した。また仙台藩主伊達政宗は、1613年家臣の支倉常長(1571~1622)をスペインに派遣してメキシコと直接貿易を開こうとしたが、通商貿易を結ぶ目的は果たせなかった(慶長遣欧使団)。
当時、ポルトガル商人はマカオを根拠地に中国産の生糸を長崎に運んで巨利を得ていたが、幕府は1604年、糸割符制度を設け、糸割符仲間と呼ばれる特定の商人に輸入生糸を一括購入させ、ポルトガル商人らの利益独占を排除し、彼らに大きな打撃を与えた。
日本人の海外進出も秀吉時代に引き続いて盛んで、東京・アンナン・カンボジアなどに渡航する商人らの船も多かった。幕府は彼らに海外渡航を許可する朱印状を与えた。この船を朱印船という。朱印船貿易が盛んになると海外に移住する日本人も増え、南方の各地に自治制をしいた日本町がつくられた。幕府の初期の外交は、キリスト教は禁じるが平和貿易は奨励するという方針であった。
鎖国政策: このような活発な海外貿易も幕府体制が固まるにつれて、日本人の海外渡航や貿易に制限が加えられるようになった。その原因の第一は、キリスト教の禁教政策にある。第二は、幕府が貿易利益を独占するためで、貿易に関係している西国の大名が富強になることをおそれて、盛んになった貿易を幕府の統制下に置こうとした。そのため、1616年には、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限し、1624(寛永元)年には、スペイン船の来航を禁じた。次いで1633年には奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止し、1635年には日本人の海外渡航と在外日本人の帰国も禁止し、明船の寄港を長崎に限った。
その後島原の乱が起こり、幕府はますますキリスト教をおそれたこともあり、1639年ポルトガル船の来航を禁止し、1641(寛永18)年には平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、日本人との自由な交流を禁じて長崎奉行が厳しく監視した。こうしていわゆる鎖国の状態となり、以後、日本は200年あまりの間、オランダ・中国・朝鮮以外の諸国との交渉を閉ざすことになったため、海外文化は細々としか入らなくなった。幕府が鎖国を断行できたのは、当時の日本の経済が海外との結びつきはなくとも成り立ったためである。
こうして、鎖国によって幕府は貿易を独占することになり、産業や文化に与える海外からの影響は制限されたが、国内ではキリスト教の禁圧が徹底し、幕府の統制力がいっそう強化された。
長崎貿易: 鎖国により日本に来航する貿易船はオランダ船と中国船だけになり、貿易港は長崎1港に限られた。オランダは長崎の出島に商館を置き、貿易の利のみを求めた。幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出するオランダ風説書によって、海外の事情を知ることができた。
17世紀半ばに中国の清船は明船にかわって長崎へ来航し、貿易額は年々増加した。幕府は輸入の増加を抑えるため、1685年オランダ船・清船からの輸入額を制限し、1688(元禄元)年には清船の来航を年間70隻に限った。また同年、長崎の町に雑居していた清国人の居住地を唐人屋敷と呼ばれる区画内に限定した。
朝鮮と琉球・蝦夷地: 徳川家康は朝鮮との講和を実現し、1609年、対馬藩主は朝鮮との間に己酉約条を結んだ。これは近世の日本と朝鮮との関係の基本となった条約で、釜山に倭館が設置されることや、対馬藩宗氏の朝鮮外交上の特権的な地位が両国によって認められた。朝鮮からは前後12回の使節が来日し、4回目からは通信使と呼ばれた。琉球王国は1609(慶長14)年、薩摩の島津家久(1576~1638)の軍に征服され、薩摩藩の支配下に入った。薩摩藩は琉球の土地にも検地・刀狩を行って兵農分離を推し進め、農村支配を確立したうえ、通商交易権も掌握した。
蝦夷ヶ島の和人居住地(道南部)に勢力を持っていた蛎崎氏は、近世になると松前氏と改称して、1604年徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障され、藩制をしいた。和人居住地以外の広大な蝦夷地の河川流域などに居住するアイヌ集団との交易対象地域は、商場あるいは場所と呼ばれ、そこでの交易収入が家臣に与えられた。アイヌ集団は1669年、松前藩と対立して戦闘になったが、松前藩は津軽藩の協力を得て鎮圧して、最後にアイヌは全面的に松前藩に服従させられた。
寛永期の文化: 寛永期を中心とする江戸時代初期の文化は、桃山文化を受け継ぐとともに、幕藩体制が安定するにつれて、新しい傾向を示しはじめた。
学問では、室町時代に五山の禅僧が学んでいた朱子学を中心に儒学が盛んになった。朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため幕府や藩にもうけいれられた。京都相国寺の禅僧であった藤原惺窩(1561~1619)は朱子学をおさめ、還俗して朱子学を中心とする儒学の啓蒙につとめた。その門人の林羅山(1583~1657)は家康に用いられ、その子孫は代々儒者として幕府につかえて教学を担った。
建築では家康をまつる日光東照宮をはじめ霊廟建築が流行し、神社建築には権現造が広く用いられた。これらの建築には桃山文化の影響を受けた豪華な装飾彫刻がふんだんに施された。
書院造に草庵風の茶室を取り入れた数寄屋造が工夫され、京都の桂離宮の書院はその代表である。絵画では狩野派から狩野探幽(1602~1674)がでて、幕府の御用絵師となったが、その子孫は様式の踏襲にはしるようになった。京都で俵屋宗達が現れ、土佐派の画法をもとに、装飾画に新様式をうみだし、元禄の琳派の先駆となった。
朝鮮侵略の際、諸大名が連れ帰った朝鮮人陶工の手で、九州・中国地方の各地で朝鮮系の製陶がおこされ、有田焼・薩摩焼・萩焼・高取焼などが有名である。とくに有田では磁器の生産がはじまり、酒井田柿右衛門がうわぐすりの上に模様をつける上絵付けの方法を研究して赤絵の技法を完成させた。文芸面では御伽草子のあとを受けた仮名草子が、教訓・道徳を主とした通俗的作品をうみだし、また連歌からでた俳諧では、京都の松永貞徳(1571~1653)の貞門俳諧の人々が活躍するなど、新たな民衆文化の基盤をつくった。
練習問題
一、次の質問に答えなさい。
1、織田信長が、天下統一の事業を進めるのに使った新しい
武器は何ですか。
2、日本にキリスト教を伝えたのは誰ですか。
3、本能寺の変で信長を殺したのは誰ですか。
4、豊臣秀吉は戦国大名の家に生まれましたか。
5、秀吉はどこを根拠地として天下統一を進めましたか。
6、秀吉が太閤検地や刀狩をした目的は何ですか。
7、安土桃山の時代の文化が豪華で雄大な特色を持っている
のはなぜでしょうか。
8、大名の城は、どのような役目を持っていましたか。
9、城下町はどのようにして発達しましたか。
10、狩野派の画家はどんな絵を描きましたか。
11、貴族や武士、裕福な商人の間に広まっていた茶を楽し
む風習を、茶道という礼法として大成したのは誰ですか。
12、南蛮貿易で伝えられた珍しい品々にはどんなものがあ
りますか。
13、徳川家康が江戸に幕府をひらいたのは、どこの戦いで
豊臣方を破った後ですか。
14、関が原の戦いを天下分け目の戦いと言いますが、それ
はなぜでしょうか。
15、武家諸法度というのは何ですか。
16、幕府は、参勤交代という制度では、大名にどのような
ことをさせましたか。
17、武士・農民・職人・商人という身分制度を何といいますか。
18、上下を差別する考えは封建社会を維持するためになぜ
役立つのでしょうか。
19、幕府がオランダ人と中国人にだけ貿易することを許し
たのはなぜですか。
20、鎖国の時、外国に開いていた窓が一つだけあります、
それはどこですか。
二、次の各文の( )に当て嵌まる語句を答えなさい。
1、1543年、( )人を乗せた船が種子島に流れ着いた。
この人は鉄砲を持っていた。鉄砲は( )大名の間に
急速に広まり、戦術も大きく変わった。
2、1549年、( )人のザビエルは、鹿児島にやってきて、
( )教を伝えた。それとともに( )貿易も盛ん
になった。
3、関が原の戦いで、豊臣方を破った( )は、1603年
征夷大将軍に任じられ、( )に幕府を開いた。
4、幕府の仕組みは簡素で、実際的で、3代将軍( )に
よって完成した。
5、豊臣方を完全に滅ぼすと、幕府は「( )諸法度」を
定め、「( )交代の制」を設けて大名の統制を強めた。
三、次の中で、安土・桃山時代の文化に当て嵌まるものを選ん
でください。
文化のにない手は、貴族や公家である。
豪華で雄大な文化である。
仏教、とくに禅宗の影響を強く受けている。
千利休が茶の湯を大成した。
城や城の壁や襖を飾る絵が有名である。
四、課題研究
1、いわゆる鎖国政策は、どのような国際情勢を背景として
進められ、幕藩体制とどのように結びついて実施された
かを考えてみよう。
第七章 幕藩体制の展開
第一節
幕政の安定
平和と秩序:1651(慶安4)年4月に3代将軍家光が死去し、長子家綱(1641~1680)が11歳で4代将軍をついだ。すでに幕府機構は整備され、保科正之(1611~1672)や譜代大名も幼少の将軍家綱を支え、社会秩序が安定しつつあった。平和が続くなかで重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する牢人や、秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。同年7月に兵学者由井正雪(1605~1651)の乱が起こると、幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防ぐ一方、江戸に住む牢人とともに「かぶき者」の取締りを強化した。1663年、成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し、あわせて殉死の禁止を命じ、主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務付けた。翌年には、すべての大名にいっせいに領地宛行状を発給して、さらに将軍の地位を確立し、また幕領の検地をいっせいに行って、幕府の財政収入の安定もはかった。
一方諸藩においても、安定した平和が続いたことで、軍役動員の負担が軽減し、また寛永の大飢饉も転機となって、藩政の安定と領内経済の発展がはかられるようになった。諸大名は有能な家臣を補佐役にして領内の支配機構を整備し、藩主の権力をいっそう強化した。また治水工事を進め、新田開発によって農業生産を高めて財政の安定をはかり、産業をおこした。しかし、参勤交代・手伝普請などの支出から、必ずしも藩財政にゆとりは生じなかった。いくつかの藩では藩主が儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかった。池田光政(1609~1682)・徳川光圀(1628~1170)・前田綱紀(1643~1700)らはその例である。
元禄時代: 政治の安定と経済の発展とを背景に、17世紀後半には5代将軍綱吉(1646~1709)のいわゆる元禄時代が出現した。綱吉の政治は、はじめ大老の堀田正俊(1634~1684)が補佐して行われたが、正俊が暗殺されたのちは側用人の柳沢吉保(1658~1714)がこれにかわった。
1683年に、綱吉の代がわりの武家諸法度がだされ、その第一条は「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」に改められた。これは武士にそれまでの「弓馬の道」の武道にかわって、主君に対する忠と父祖に対する孝、それに礼儀による秩序をまず第一に要求してものであった。
このいわゆる文治主義の考えは儒教に裏付けられたもので、綱吉は林信篤(1644~1732)を大学頭に任じ、湯島聖堂をたてて儒教を重視した。また礼儀による秩序維持にうえから、これまでの天皇・朝廷政策を改めて、朝廷儀式のいくつかを復興させたり、禁裏御料も増やした。綱吉はまた仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年あまりにわたり生類憐みの令を出し、犬にかぎらず生類すべての殺生を禁じた。これによって庶民は大いに迷惑したが、その影響で、よその飼犬の殺生も辞さなかった「かぶき者」などの社会に不満を持つ存在を戦国の遺風ともどもたつことになった。
大名や天皇・朝廷の統制方式の転換を進めた綱吉の時代には、幕府財政も転換期を迎えた。比較的豊かだった鉱山収入は、佐渡鉱山などの金銀の産出量が減少し、たちどころに財政は収入減となった。そのうえ明暦の大火後の江戸城と市街の再建費用、さらに引続く元禄期の寺社造営費用は大きな支出増となり、幕府財政の破綻を招くことになった。
そこで勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(1658~1713)は、財政収入増の方策として貨幣改鋳を上申し、綱吉はこれを採用した。この改鋳で幕府は質の劣った小判の発行を増加し多大な増収をあげたが、貨幣価値の下落は物価の騰貴を引き起こし、人々の生活を圧迫した。さらに1707年には富士山が大噴火し、駿河・相模などの国々に降灰による大被害をもたらした。
正徳の政治: 綱吉の死後、6代将軍家宣(1662~1712)は生類憐みの令を廃止し、柳沢吉保をしりぞけて、儒学の師で朱子学者の新井白石(1657~1725)と側用人の間部詮房(1667~1720)を信任して政治の刷新(正徳の治)をはかろうとしたが、在職わずか3年あまりで死去した。あとを継いだ7代将軍家継(1709~1716)は3歳の幼児将軍で、引続き政治は新井白石らに依存した。
短命と幼児将軍が続くなか、将軍個人の人格よりも、将軍職の地位とその権威をいかに高めるかが、白石の大きな課題の一つであった。将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめたり、閑院宮家を創設したのは、天皇家と結んで将軍の威信を高めようとしたためである。また一目で序列が明瞭になるよう衣服の制度を整えて、家格や身分の秩序を重視した。また朝鮮の通信使が家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際、これまでの使節待遇が丁重に過ぎたとして簡素にし、さらに朝鮮から日本宛の国書に、それまで「日本国大君殿下」としるされていたのを「日本国王」宛に改めさせた。
白石は財政問題においては元禄小判の金含有率を改め、もとの慶長小判と同率の正徳小判を鋳造させて物価の騰貴を抑えようとした。しかし、再度の貨幣交換はかえって社会に混乱を引き起こすことになった。また長崎貿易では、金銀の流出がおびただしかったので、これを防ぐために1715(正徳5)年、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を発して貿易額を制限した。
第二節
経済の発展
農業生産の発展: 戦国時代から近世の前期にかけ、治水や溜池用水路の開削技術の著しい発達によって河川敷や海岸部の大規模な耕地化が可能となり、幕府や諸藩もこれを積極的に進めたため、全国の耕地は飛躍的に広がった。また17世紀の末以降には、有力な都市商人が資金を投下して開発する町人請負新田が各地に見られた。
耕地の拡大とならんで、農業技術の進歩も目覚しかった。近世の農業経営は小規模な家族の労働を基礎に、狭い耕地にこまやかに人力を集約的に投下する方法で行われた。農具もそれに応じて深耕用の備中鍬、灌漑用の踏車などを考案された。新しい栽培技術や農業知識を説く優れた農書が数多くあらわされ、広く読まれた。
生産の中心である米はもっぱら年貢として領主にとりたてられ、農民たちは自給自足の貧しい暮らしを強いられた。しかし、農業の生産力が急速に高まると、余剰米を商品として都市に売ったり、桑・綿・油菜・野菜・タバコなどを商品作物として生産・販売し、貨幣にかえて利潤を得る機会が増大した。この結果、多くの村は都市を中心とする商品流通に徐々に巻き込まれるようになった。
諸産業の発達: 農業とともに、ほかの諸産業の発達も著しかった。漁業は網漁を中心とする漁法の改良と、沿岸部の漁場の開発によって重要な産業としての地位を確立した。網漁は中世末以来、摂津・紀伊などの上方漁民によって全国に広まり、上総九十九里浜の地曳網による鰯漁、肥前五島の鮪漁、松前の鰊漁が有名になった。この他、瀬戸内海の鯛や土佐の鰹などの釣漁、網や銛を駆使する紀伊・土佐・肥前などの捕鯨、蝦夷地における昆布や俵物の生産などが見られた。
塩では高度な土木技術を要する入浜式塩田が発達し、瀬戸内海の沿岸部を中心に塩の量産が行われた。
林業は、都市を中心とする建築資材の大量需要によって急速に発達し、江戸中期には、材木問屋の活躍で蝦夷地にまで山地が広がった。また都市近郊の山野では紙の原料や茶・漆などの特産地が形成され、薪・炭も生産されて重要な燃料として大量に消費された。
鉱山業では、幕府によって直接に鉱山の開発が試みられ、採掘・排水・精錬などの技術進歩により、17世紀初めに、日本は当時の世界でも有数の金銀産出国になった。17世紀後半になると金銀の産出量は急減し、かわって銅の産出量が増加し、急増する貨幣の需要に応じるとともに、長崎貿易における最大の輸出品となった。鉄は、砂鉄の採集によるたたら精錬が中国・東北地方を中心に行われた。そこで作られた玉鋼は全国に普及し、多用な農具や工具に加工され、技術の進歩や生産の進展に大きく貢献した。
手工業の多様化:手工業はまず生産のための道具や仕事場を自分で所有する小規模な独立手工業者である。都市の諸職人によってになわれた。しかし、農村でも百姓の零細な農村家内工業として多用な手工業生産が見られるようになった。その代表は麻・木綿・絹などの織物業である。戦国末期に綿作が朝鮮から日本に伝わると、木綿は従来の麻とともに庶民の代表的衣料として瞬くうちに普及した。これを支えたのは伝統的ないざり機による農家の女性労働であった。絹や紬は農村部でも織られたが、金襴・緞子などの高級品は京都の西陣で高度な技術のいる高機で独占的に織られた。しかし、18世紀中ごろには、高級な絹織物も上野の桐生をはじめ、農村部を含む各地で生産されるようになった。
和紙は、楮を主な原料とする流漉の普及で生産地が全国に広がった。紙は必需品となり、学問・文化の発展にも大きく貢献した。陶磁器は朝鮮から伝わった登窯や上絵付などの技術の普及によって盛んとなり、肥前有田では佐賀藩の保護のもとで磁器が生産され、長崎貿易の主要な輸出品となった。
醸造業では、伏見や灘の酒、野田や銚子の醤油などが著名である。このほか、地域に適して特産品が各地でうまれ、商人や旅人の手を通して全国に流布した。
これらの手工業生産の一部は、藩の保護下で大規模なものとなった。そして19世紀になると、尾張の織物業などでは都市の問屋商人から資金や原料の前貸しを得て生産を行う問屋制家内工業に発展する場合も見られた。
交通の整備: 陸上交通は、豊臣政権による全国統一の過程で整備が始まり、これを引き継いだ江戸幕府によって、江戸を中心に各地の城下町をつなぐ全国的な街道の網の目が完成した。特に江戸・大坂(明治時代から大阪に変わる)・京都の三都を結んだ東海道をはじめ、中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道は、幕府の直轄下におかれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された。
また、脇街道と呼ばれる幹線道路が全国各地を覆った。街道の城下町中心部や小都市には宿駅が数多く置かれ、また橋・渡船場・関所などの施設が整えられた。交通制度においては、幕府や大名らの御用通行が最優先とされ、通行に用いる人馬は無料あるいは一般の半額程度の賃銭で徴発された。この負担を伝馬役と呼び、宿駅の百姓・町人や、近隣の村の百姓によってになわれた。宿駅には問屋場が置かれ、問屋や年寄、帳付けなどの宿役人が伝馬役の差配や、公用の書状・荷物の継ぎおくりにあたった。宿駅の中心には大名らが利用する本陣・脇本陣、一般旅行者のための旅龍屋などが設けられた。
大量の物資を安価に運ぶには、陸路より海や川の水上交通が適していた。海上交通は幕府や藩の年貢米輸送を中心に、大坂と江戸を基点に整備された。大坂・江戸間には菱垣廻船・樽廻船が定期的に運航され、大坂から木綿・酒などを江戸に運んだ。また17世紀後半、江戸の商人河村瑞賢(1617~1699)によって、東廻り海運・西廻り海運が整備され、全国的な海上交通網が完成した。内陸部の河川舟運も物資の流通の中心を担い、富士川・高瀬川などの開削によって新たな水路が開かれていった。
商業の展開: 堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地とした近世初期の豪商たちは、朱印船貿易や国内の未整備な交通体系を利用して活躍したが、鎖国による海外との交易の制限や、陸上・水上交通の整備による全国市場の形成によって急速に衰えていった。17世紀後半になると、三都や城下町において、各地からの商品の受託や仕入れを独占する問屋商人が商業や流通の中心を占めた。そして多くの業種では問屋が仲間という同業者の団体を作り、独自の法を定めて営業権の独占をはかった。江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋は、江戸・大坂間の荷物運送の安全と流通の独占を目指して結成された仲間の連合組織である。
幕府は当初この仲間を公式には認めなかったが、18世紀以降になると、商業・手工業の支配や物価政策のため、運上・冥加という営業税を負担することを条件に商人や職人の仲間を公認し、営業独占を許し始めた。こうして認められた営業の独占権を株と呼び、その仲間を株仲間と呼ぶ。
問屋や仲買の仲間に従属し、消費者にさまざまな商品を販売する小売商人の多くは、店舗を持たない零細な商人で、振売・棒手振などと呼ばれ、都市や都市近郊の民衆にとって、最も重要な生業の一つであった。
貨幣と金融: 戦国大名は全国各地で金山・銀山を開発し、軍資金にあてるために競って独自の金貨・銀貨を鋳造した。しかし、全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は、家康が関ヶ原の戦いの翌年に開設させた金座・銀座によってはじめて大量に作られた。金座は江戸と京都に置かれ、後藤庄三郎のもとで小判・一分金などの計数貨幣が鋳造された。また銀座は、まず伏見・駿府におかれ、のちに京都・江戸に移されて、丁銀や豆板銀などの秤量貨幣を鋳造した。また寛永期に江戸と近江坂本に作られた銭座は、のちに全国各地に設けられ、膨大な量の銅銭・鉄銭などが鋳造された。こうして17世紀中ごろには金・銀銭の三貨が全国に普及し、商品流通の飛躍的な発展を支えた。
しかし、東日本ではおもに金が取引の中心とされ(金遣い)、西日本では銀が中心となり(銀遣い)、また三貨の間の交換率は相場によってつねに変動するなど、明治に至るまで統一的な貨幣制度はついに成立しなかった。17世紀後半から各藩では城下町を中心とする藩経済の発達のもとで藩札が領内で流通し、また地域によっては商人の発行する私札が流布することもあり、三貨の不足と藩財政の窮乏を補った。
これらの貨幣は、三都や各城下町の両替商により流通が促進された。両替商は三貨間の両替や秤量を商売とし、また大坂や江戸の本両替をはじめとする有力な両替商は、公金の出納や、為替・貸付などの業務をあわせて行い、幕府や藩の財政を支えた。
三都の発達: 農業生産の進展と諸産業の発達は各地で都市を繁栄させた。中でも全国市場の要である江戸・大坂・京都の三都は、当時の世界でも有数の大都市に成長した。
「将軍のお膝元」である江戸には、幕府の諸施設や全国の大名の屋敷(藩邸)をはじめ、旗本・御家人の屋敷が集中し、彼らの家臣や武家奉公人を含め、多数の武家人口が居住した。また町人地には、武家の生活を支えるために、あらゆる種類の商人・手工業者や日用らが集まり、江戸は日本最大の消費都市となった。
大坂は「天下の台所」といわれ、西日本や全国の物資の集散地として栄えた大商業都市であった。諸藩は蔵屋敷を大坂などにおいて、領内の年貢米や特産物である蔵物を蔵元・掛屋と呼ばれる商人を通じて販売し、貨幣の獲得につとめた。また、全国の商人が大坂などに送る商品(納屋物)も活発に取引きされた。幕府はここに大坂城代や大坂町奉行をおいて、大坂や西日本の支配の要とした。
京都には古代以来、天皇家や公家が居住し、寺院や神社の本寺・本山が数多く集まり、将軍家を含め、武士や宗教者、一部の御用職人らの権威を支えるために重要な役割を果たした。また、京都には呉服屋をはじめとして大商人の本拠地が多く存在し、これと関して西陣織や京染・京焼などに見られるような高い技術を用いた手工業生産が発達した。そして、幕府は重職である京都所司代を置き、朝廷・公家・寺社との関係の保持や畿内と周辺諸国の統轄にあたらせた。
第三節
元禄文化
元禄文化:17世紀末から18世紀初めの元禄時代には、幕政の安定と経済の目覚しい発展のもとで社会が成熟し、武士や有力町人をはじめ、民衆に至るまで多彩な文化が芽生えた。この時期の文化を元禄文化と呼ぶ。元禄文化の特色は、人間と社会を中心に据えた現実主義と実証主義の傾向が強いことである。現世を「浮き世」とみる町人社会の中から、現実そのものを描こうとする文学が生まれたり、儒学が政治と結びついて奨励され、実証を重んずる古典研究や自然科学の学問が発展したのはそのあらわれである。
そのほか美術では、桃山文化やその影響の濃い江戸初期の文化の伝統を受け継ぎ、いっそう洗練されたものとなっていった。
元禄期の文学: 元禄期の文学は、上方の町人文芸が中心で、井原西鶴(1642~1693)・松尾芭蕉(1644~1694)・近松門左衛門(1653~1724)がその代表である。
西鶴は大坂の町人で、はじめ俳諧で注目をあつめ、やがて浮世草子と呼ばれる小説に転じ、職業作家としての道を歩んだ。現実の世相や風俗を背景に、人々が愛欲や金銭に執着しながら、自らの才覚で生き抜く姿を描き、新しい文学の世界を開いた。
芭蕉は伊賀の出身で、奇抜な趣向を狙う西山宗因(1605~1682)のはじめた談林俳諧に対して、さび・しおり・かるみで示される幽玄閑寂の蕉風(正風)俳諧を確立し、自然と人間を鋭く見つめた。また連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた。芭蕉は各地を旅して地方の武士・商人・地主たちとまじわり、『奥の細道』などの優れた紀行文をあらわした。
近松は京都近くの武士の出身であったが、若いころから文学に親しみ、当時流行していた人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた。彼は現実の社会や歴史に題材を求め、義理と人情との板ばさみに悩む人々の姿を表現した。近松の作品は人形遣いの辰松八郎兵衛らが演じ、竹本義太夫(1651~1714)らによって語れて民衆の共感をよんだ。義太夫の語りは義太夫節という独立した音曲に成長していった。
このころ人形浄瑠璃とともに、歌舞伎も民衆の演劇として発達した。江戸・上方には常設の芝居小屋が置かれ、江戸に勇壮な演技で好評を得た初代市川団十郎(1660~1704)、上方に恋愛劇を得意とする坂田藤十郎(1647~1709)、女形の代表とされる芳沢あやめ(1673~1729)らの名優が出た。
儒学の興隆: 幕藩体制の安定とともに社会における人々の役割を説く儒学は大いに盛んとなった。とくに上下の身分秩序を重んじ、礼節を尊ぶ朱子学の思想、封建社会を維持するための教学として幕府や藩に歓迎された。
南村梅軒によって開かれ、土佐の谷時中(1598~1649)に受け継がれた南学(海南学派)も朱子学の一派で、その系統からは山崎闇斎(1618~1682)・野中兼山(1615~1663)らが出た。とくに闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道を説いた。
朱子学に対し中江藤樹(1608~1648)や門人の熊沢蕃山(1619~1691)らは、明の王陽明がはじめた陽明学を学び、現実を批判して、知行合一の立場でその矛盾を改めようとする革新性を持っていたために、幕府から警戒された。
一方、宋や明で行われた外来の儒学にあきたらず、孔子・孟子の古典にたち帰ろうとする古学派が、山鹿素行(1622~1685)や伊藤仁斎(1627~1705)らによってはじめられた。仁斎らの古学を受け継いだ荻生徂徠(1666~1728)は政治・経済にも関心を示し、幕藩体制を守るためには都市の膨張を抑え、武士の土着が必要であると説いて、経世論の道を開いた。
徂徠は柳沢吉保や将軍吉宗に用いられ、享保の改革では政治顧問の役割を果たした。またその弟子太宰春台(1680~1747)は、徂徠の経世論を発展させ、武士が商業活動を行い、専売制度によって利益をあげるべきであると主張した。
諸学問の発達: 儒学の発達は、合理的で現実的な思考を発達させ、他の学問にも大きな影響を与えた。歴史学では古文書に基づく実証的な研究が行われ、新井白石は『読史余論』を著わし、武家政権の推移を段階的に時代区分して独自の史論を展開した。
自然学では、本草学(博物学)や農学・医学など実用的な学問が発達し、貝原益軒(1603~1714)の『大和本草』、宮崎安貞(1623~1697)の『農業全書』などが出て広く利用された。また、測量や物の売買などの必要から和算(日本数学)が発達し、関孝和(1642~1708)は筆算代数式とその計算法や、円球に関する計算などで優れた研究を生み出した。天文・暦学でも、渋川春階(1639~1715)は中国の暦をもとに当時用いられていた暦の誤差を修正して、日本独自の暦を作った(貞享暦)。この功により、幕府は渋川春会を新設の天文方に任じた。
国文学の研究もこの時代から始まった。まず、戸田茂睡(1629~1706)は和歌に使えない言葉が中世以来定められていることの無意味さと、俗語を用いることの正当さを説いた。『万葉集』を研究した契沖(1640~1701)は、茂睡の説の正しさを多くの実例によって説明し、『万葉代匠記』を著わして、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を排した。また北村季吟(1624~1705)は『源氏物語』や『枕草子』を研究して、作者本来の意図を知ろうとした。これらの古典研究は古代精神の探求に進み、のち国学として成長することになる。
元禄美術: 美術世界では、上方の豪商を中心に、都市や農村の民間の有力者を主な担い手とする、洗練された美術が生み出された。
絵画では狩野派のほかに、大和絵系統の土佐派からでた土佐光起(1617~1691)が朝廷の絵師となり、また土佐派からわかれた住吉如慶(1599~1607)・具慶(1631~1705)父子は、幕府の御用絵師となって活躍した。京都では、呉服屋の出身である尾形光琳(1658~1716)が、大和絵の俵屋宗達の装飾的な画法を取り入れて琳派をおこした。また江戸では、安房出身の菱川師宣が美人・役者・相撲などに画題を求めた浮世絵は都市の活気にあふれた風俗を描き、安価に入手できることもあって、民衆の間に大きな人気を得た。
工芸の分野にも優れた作品が多く見られた。陶器では京都の野々村仁清が上絵付法をもとに色絵を完成して京焼の祖となり、尾形乾山(1663~1743)はこの流れを汲んで装飾的で高雅な陶器を残した。光琳もまた優れた意匠の蒔絵で知られる。染物では、宮崎友禅が友禅染をはじめ、綸子や縮緬の生地に華やかな模様をあらわして、町人の間で流行した。
練習問題
次の質問に答えなさい。
1、この時代には道路が発達したが、それはなぜでしょうか。
2、江戸から海岸に沿って京都へ行く道を何といいますか。
3、五街道といったら、何街道と何街道ですか。
4、大坂(阪)が町人の町で、経済の中心になった大きな理
由は何ですか。
5、朱子学というのは、どのような学問でしたか。
6、元禄文化はどこを中心地に生まれましたか。
7、井原西鶴が好んで描いたものはどんなものでしたか。
8、「奥の細道」のような旅のことを書いた文をなんと言い
ますか。
9、この時代に美術で活躍した人にはどんな人がいますか。
10、近松門左衛門の有名な脚本にどんなものがありますか。
二、次の各文が正しければ○、誤りならば×を書きなさい。
1、五街道は大坂(阪)を中心に発達した。
2、五街道の大切なところには、関所があった。
3、江戸・名護(古)屋・京都のことを三都といった。
4、三井・三菱は江戸時代の大商人であった。
課題研究
1、元禄文化の特色をまとめ、それが文学と美術の分野で、
どのような形であらわれているかを説明しよう。
第八章 幕藩体制の動揺
第一節
幕政の改革
享保の改革:17世紀に、農業を中心として著しく発展した生産活動は、その後も多分野にわたって引続き拡大し、三都や城下町の富裕な商人のなかには、窮乏する武士だけでなく大名にも利貸を行い、藩の経済的実権を握るものも現れた。また農村にも貨幣経済が浸透し、商品作物の生産や家内工業が広がって、新たな富が次第に蓄積されていった。
このような中で、1716(享保元)年にまだ8歳であった将軍家継が死去し、家康以来の宗家(本家)がとだえると、三家の一つで紀伊藩主の徳川吉宗(1684~1751)が8代将軍をついだ。吉宗は30年近くの将軍在職の間、家康時代への復古をかかげて幕政の改革につとめた。これを享保の改革と呼ぶ。
吉宗は綱吉以来続いていた側用人による側近政治を排して、譜代大名を重視し、旗本の大岡忠相(1677~1751)や民間から田中丘隅(1662~1729)らの有能な人材を多く登用し、荻生徂徠や室鳩巣(1658~1734)らの儒学者を侍講に用いて、将軍みずからその先頭にたって改革に取組んだ。
改革の中心は財政の再建にあった。まず倹約令によって支出を抑え、大名には臨時に石高1万石について100石を献上させる上米を実施し、その代わりに参勤交代の負担を緩めた。ついで、抜本的な対策として、幕領の代官らの不正を徹底的に摘発し、年貢の増徴を目指して検見法を改め、定免法を広く取り入れて、年貢率の引上げをはかった。そして、西日本の幕領で盛んになった綿作などの商品作物の生産による富の形成に目をつけ、畑地からの年貢増収を目指した。また、商人資本の力を借りて新田開発を進め、米の増産を奨励した。これらの施策によって幕領の石高は1割以上増加し、年貢も増加に向かって、幕府財政はやや立直りを示した。また吉宗は甘藷・砂糖黍・櫨・朝鮮人参などの栽培や実学を奨励して、新しい産業を進め、また漢訳洋書の輸入制限を緩めた。
改革の第2の柱は江戸の都市政策で、町奉行大岡忠相によって進められた。明暦の大火以後も繰り返し大火に見舞われた江戸に、広小路などの防火施設を設け、消火制度を改善して、定火消とは別に、町方独自の町火消を組織させた。また、評定所に目安箱を設けて庶民の意見を聞き、貧民の救済施設である小石川養生所を作った。
社会の変容: 享保の改革は多くの成果をあげたが、18世紀後半は幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。年貢の増徴策で小百姓の生活は圧迫され、米価の低迷によって、年貢米で暮らしを立てる武士の窮乏がひどくなった。
村々では、一部の有力な村役人らが、自らは地主手作を行う一方で、手持ちの資金を困窮した百姓に利貸して、質にとった田畑を村の内外で集めて地主に成長し、その田畑を小作人に貸して小作料を取り立てた。彼らは同時に農村地域における商品作物生産の中心的にない手でもあって成長が著しく、豪農と呼ばれた。一方、田畑を手放した小百姓、小作人となるほか、年季奉公や日用稼ぎに従事し、いっそう貨幣経済に巻き込まれるようになった。こうして村では、自給自足的な経済のあり方が大きくかわり、村役人をかねる豪農と、小百姓や小作人らとの間の対立が深まった。そして村役人の不正を追及し、村の民主的運営を求める小百姓らによる村方騒動が各地で多数起こった。
都市の経済活動は、仲間の公認や相対済まし令の実施もあって、幕府や諸藩の力では左右できないほど自立的で強固なものへと成長していった。問屋商人の活動範囲は全国に及び、なかでも近江・伊勢・京都の出身で呉服・木綿・畳表などを扱う一群の商人らは、両替商をかねて、三井家のように三都や各地の城下町などに出店を持ち、大規模に店舗を経営するものも現れた。また、都市の問屋商人は農村部の商品生産に資金や原料を供与することで豪農を通して介入し、農村の工業を問屋制家内工業に組織する動きを示した。こうして村とともに幕藩体制の基礎を構成してきた町はその性格を大きく変えていった。とくに三都や城下町の中心地では、町内の家持町人が減少し、住民の多くは、地借や店借・商家奉公人らによって占められることが多かった。そして町内の裏長屋や場末の地域には、農村部から出稼ぎなどで流入してきた人々や、小売・職人仕事に従事する貧しい民衆が多数居住した。これらの都市民衆は、九尺二間といわれる零細な長屋に住み、わずかな貨幣収入でどうにか暮らしを支えていたので、物価の上昇や飢饉・災害にあうと、たちまち生活を破壊された。
一揆と打ちこわし: 百姓は村請制のもとで年貢や諸役など重い負担にたえていたが、幕府や藩の支配が彼らの暮らしや生産を大きく損なうときには、領主に対し村を単位に要求を掲げてしばしば直接行動を起こした。これを百姓一揆と呼ぶ。
17世紀の初めは、徳川氏の支配に抵抗する武士を交えた武力蜂起や逃散など、まだ中世の一揆のなごりが見られた。しかし17世紀後半からは村々の代表者が百姓全体の利害を代表して領主に直訴する一揆が増え、17世紀末になると、広い地域にわたる百姓が村々をこえて団結して起こす大規模な惣百姓一揆も各地で見られるようになった。一揆に参加した百姓らは、年貢の増徴・新税の停止、専売制の撤廃などを要求し、藩の政策に協力している商人や村役の家を打ち壊す実力行動もとった。
幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者を厳罰に処した。しかし、こうした弾圧にもかかわらず、しばしば発生した凶作や飢饉を機に、百姓一揆は増加の一途をたどった。
なかでも、1732(享保17)年に西日本一帯で、天候不順のなか、蝗が大発生し稲を食い尽くして大凶作となり、全国に及ぶ飢饉となった。このため民衆の暮らしは大きな打撃を受け、江戸では翌1733年に、有力な米問屋が米価急騰の原因をつくったとして打ち壊された。
また1782年、東北地方の冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火を経て、多数の餓死者を出す有数の大飢饉となり、村々の荒廃の中で数多くの百姓一揆が起こり、そして江戸・大坂などの都市では激しい打ちこわしが発生した。
田沼時代: 将軍吉宗のあと、9代将軍家重(1711~1761)を経て10代将軍家治(1737~1786)の時代になると、側用心からはじめて老中となった田沼意次(1719~1788)が実権を握った。この時代を田沼時代という。意次は行詰った幕府財政再建のために、年貢増徴だけに頼らず、民間の経済活動を活発にさせ、得られた富の一部を財源に取り込もうとした。そのために、都市や農村の商人や手工業者の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加など営業税の増収を目指した。また、はじめて定量計数銀貨を鋳造させ、金を中心とする貨幣制度への一本化を試みた。
さらに意次は、江戸や大坂の商人の力を借りて印旛沼・手賀沼の大規模な干拓工事をはじめるなど、新田開発を積極的に試みた。また仙台藩の医師工藤平助(1734~1800)の意見を取り入れ、最上徳内(1754~1836)らを蝦夷地に派遣して、その開発やロシア人との交易の可能性を調査させた。意次の政策は、商人の力に依拠しながら、幕府財政を思い切って改善しようとするものであった。これに刺激を受けて、民間の学問・文化・芸術が多用な発展を遂げたが、一方で幕府役人の間には、賄賂や縁故による人事が横行し、士風を退廃させたとする批判も強かった。
1784(天明4)年に、若年寄の田沼意知(意次の子)が江戸城内で暗殺されると、意次の勢力は急速に衰えた。そして1786年、将軍家治が死ぬと老中を罷免されて、多くの政策も中止となった。
寛政の改革:田沼意次が失脚した翌1787年5月、江戸・大坂など全国30余りの主要都市で打ちこわしが続いて起こった。こうしたなかで、11代将軍家斉(1773~1841)の補佐として老中に就任したのが、白河藩主松平定信(1758~1829)である。定信は吉宗の政治を理想とする幕政の改革に早速着手し、田沼以来の政策を改め、飢饉で危機に陥った財政基盤を復旧し、緩んだ士風を引き締めて、幕府の権威を再建しようと試みた。定信による改革政治を寛政の改革と呼ぶ。まず荒廃した農村を復興させるために、人口減少の激しい陸奥や北関東などで百姓の他国への出稼ぎを制限し、荒れた耕地を復旧させようと、全国で公金貸付を行った。また飢饉にそなえて、各地に社倉・義倉を作らせて米穀をたくわえさせた。
寛政の改革のもう一つの柱は都市政策であった。なかでも打ちこわしにみまわれた江戸では、両替商を中心とする豪商が幕府に登用され、その力を利用して改革が進められた。まず物価や米価の調節をはかって、その引き下げを命じ、ついで正業を持たないものに資金を与えて農村に帰ることを奨励した。さらに石川島に人足寄場を設け、無宿人を強制的に収容して治安対策とするとともに、技術をつけさせて職業を持たせようと試みた。
一方、大名・旗本らには倹約を求め、困窮する旗本・御家人を救済するために、棄捐令を出して札差に貸金を放棄させた。
思想の面では朱子学を正学とし、1790(寛政2)年には学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じて(寛政異学の禁)、幕臣の意識を引締めようとした。
民間に対しては厳しい出版統制令を出し、政治への風刺や批判を抑え、風俗の刷新が図られた。そして、林子平(1738~1793)が『三国通覧図説』や『海国兵談』で海岸防備を説いたことを幕府への批判として弾圧し、風俗をみだすこととして黄表紙や洒落本の出版を禁じたり、その出版元を処罰したりした。
寛政の改革は、一時的に幕政を引締める効果はあったが、厳格過ぎたために人々の反感をかい、社会の動揺の根本的解決にはならなかった。そして光格天皇の実父の処遇をめぐって起きた尊号一件で家斉と対立したこともあって、1793年に定信は老中を退いた。
18世紀後半からは諸藩でも藩政改革が進められ、特産物の増産と専売制による財政再建や藩校の設立による人材の登用などが行われた。熊本藩の細川重賢、米沢藩の上杉治憲、秋田藩の佐竹義和らは、名君として知られている。
第二節
幕府の衰退
外国船の来航: 日本が鎖国を続けている間に、世界の情勢は大きく変化した。1792(寛政4)年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民をとどけるとともに通商を求めた。その際使節が江戸湾入航を要求したことが刺激になって、幕府は海防の強化を諸藩に命じた。さらに1798年、幕府は近藤重蔵(1771~1829)らに千島を探査させ、翌年東蝦夷地を直轄地とした。
また、1808年のイギリス軍艦フェートン号の長崎乱入であった。フェートン号は、当時敵国であったオランダ船を求めて長崎に入り、オランダ商館員を捕らえて人質にし、薪水・食糧を強要し、やがて退去した(フェートン号事件)。そこで、幕府は1810年、白河・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。
その後もイギリス船・アメリカ船が日本近海に出没し、薪水・食糧などを強要することが多くなった。幕府は薪水・食糧を供給して帰国させる方針をとっていたが、外国船員と住民との衝突回避のためにも、1825(文政8)年異国船打払令を出し、外国船を撃退することを命じた。このため1837(天保8)年に、アメリカの商船モリソン号が、日本漂流者の送還と日本との貿易開始を交渉するために来航した際、これを撃退する事件が起こった(モリソン号事件)。
この事件について、翌1838年、渡辺崋山(1793~1841)は『慎機論』を、高野長英(1804~1850)は『戊戌夢物語』を書いて幕府の鎖国政策を批判した。しかし、幕府はこれらの幕府批判に対しては、厳しく処罰した。
文化・文政時代: 松平定信が老中を辞任したのち、文化・文政時代を中心に11代将軍家斉が在職し、1837(天保8)年に将軍職を家慶(1793~1853)に譲ったのちも、大御所(前将軍)として実権を握りつづけた。約50年間の家斉の治世で、文化年間までは寛政改革の質素倹約が受継がれたが、文政年間に入ると、品位の劣る貨幣を大領に流通させたことで幕府財政は潤い、将軍や大奥の生活は華美になった。また商人の経済活動も活発になり、都市を中心に庶民文化の花が開くことにもなった。
しかしその反面、関東の農村のように、在地の商人や地主が力をつける一方で、土地を失う農民も多く発生して荒廃地域が生じた。江戸を取巻く関東農村では、無宿者や博徒らによる治安の乱れも生じたため、幕府は1805(文化2)年、関東取締出役を設けて犯罪者の取り締まりにあたらせた。さらに1827年には、幕領・私領・寺社領の領主の違いをこえて、近隣の村々を寄集めた寄場組合を作らせ、協同して治安にあたらせたり、風俗の取締りや農村秩序の維持などを行わせた。
大塩の乱: 天保年間の1832-1833年には収穫が例年より半分以下の凶作となり、全国的に米不足を招いて、厳しい飢饉に見舞われた(天保の飢饉)。農村や都市には困窮した人々がみち溢れ、百姓一揆・打ちこわしが続発したが、幕府・諸藩は何ら適切な対策を立てることができなかった。
1836(天保7)年の飢饉はとくに厳しく、そのため、もともと米の不足していた甲斐国郡内地方や三河国加茂郡で一揆が起こった。ともに幕領で生じた大規模な一揆であることに、幕府は衝撃を受けた。
大坂でも飢饉の影響は大きく、餓死者が相次いだ。しかし、富商らは米を買い占めて暴利を得る一方、町奉行は窮民の救済策をとることもなく、米不足のおりに、大坂の米を町奉行みずから大量に江戸へ回送していった。これを見た大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(1793~1837)は、1837(天保8)年に窮民救済のため、門弟や民衆を動員して武装蜂起したが、わずか半日で鎮圧された(大塩の乱)。大坂という重要な直轄都市で、幕府の元役人であった武士が主導して、公然と武力で反抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。
その波紋は全国に及び、国学者生田万(1801~1837)が大塩門弟と称して越後柏崎で代官所を襲撃したり(生田万の乱)、各地に大塩に共鳴する一揆が起きたりするなど、不穏な動きが続いた。
天保の改革: 幕府は財政難と体制を揺るがす厳しい内憂外患に対応するため、1841年、家斉の死後、老中水野忠邦(1794~1851)を中心に幕府権利の強化を目指して天保の改革を行った。
忠邦は享保・寛政の改革に倣い、まず江戸城中も含め断固たる倹約令を出して、贅沢品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もまた厳しく取締まった。ついで江戸の人別改めを強化し、人返しの法を発して農民の出稼ぎを禁じ、江戸の流入した貧民の帰郷を強制し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建を図った。
また物価騰貴の原因は、十組問屋などの株仲間が上方市場からの商品の流通を独占しているためと判断して、株仲間の解散を命じた。幕府は江戸仲間外の商人や、江戸周辺の農村にいる商人らによる自由な取引きで物価引下げを期待したのである。しかし物価騰貴の実際の原因は、生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので、株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量を乏しくすることになり、逆効果となった。また物価騰貴は、江戸の庶民のほか旗本や御家人の生活も圧迫したので、幕府は札差などに低利の貸出しを命じた。このような生活と風俗への厳しい統制と不景気とが重なり、人々の不満は高まっていった。
一方幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の封地を互いにいれかえることを命じたが、領民の反対もあって撤回された。幕府が転封を決定しながら、その命令が徹底できなかったことは空前の出来事であり、これは幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。そこで水野忠邦は、幕府権力を強化する意味からも、1843(天保14)年に上知令を出し、江戸・大坂周辺の合わせて約50万石の地を直轄地にして、財政の安定や対外防備の強化を図ろうとした。しかし、他地域に代地は用意されたが、諸大名や旗本に反対されて上知令は実施できず、忠邦も失脚した。改革の失敗は改めて幕府権力の衰退を示した。
経済の近代化: 農業生産を前提に、年貢を取り立てて成り立つ幕藩体制の構造は、天保期ころに行詰りを示し出した。
北関東の常陸・下野両国の人口は、1721年に比べ、1846年には約30%の減少となった。人口減少は、日光山領の農村で見られたように農民が農地を放棄し、田畑を荒廃させることにつながった。
一方19世紀に入ると、商品生産地域では問屋制家内工業がいっそう発達し、一部の地主や問屋商人は家内工場を設けて、農業から離れた奉公人を集め、分業と協業による手工業的生産を行うようになった。大坂周辺や尾張の綿織物業、足利など北関東の絹織物業などで、天保期ころから行われはじめた。
このような社会・経済構造の変化は、幕藩領主にとって体制の危機となるため、その対応策をとった。二宮尊徳(1787~1856)の報徳仕法のように、荒廃田を回復させて、農村を復興させる封建制再建の方法である。しかし、すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われており、この方法では資本主義の胎動はとめられなかった。これに対し、新しい経済活動を積極的に取込む方法が、藩営専売制や藩営工場の設立であった。
雄藩のおこり: 諸藩においても有能な人材を登用し、財政の再建を図り、藩権力の強化を目指す藩政改革が行われた。鹿児島(薩摩)藩では下級武士から登用された調所広郷(1776~1848)が、1827年から改革に着手し、三都の商人からのばく大きな借財を事実上たなあげにし、また奄美三島特産の黒砂糖の専売制強化や琉球貿易で財政再建に成功した。ついで島津斉彬(1809~1859)は、集成館という洋式工場郡を創立するとともに、洋式武器の導入など軍事力の強化にも努めた。
長州藩では、防長大一揆を機に村田清風(1783~1855)が改革を担当し、藩債8万5000貫(約140万両)の整理や紙・蝋の専売制の改正、越荷方という藩営の金融業・倉庫業の経営などによって財政再建に成功した。
佐賀藩では、藩主の鍋島直正(1814~1871)が地主の小作地を藩に収公して小作人に分給するという均田制を実施して本百姓体制の再建をすすめ、陶磁器の専売によって財政を安定させた。また、大砲製造所を設けて軍備の近代化も図った。
このほか土佐・水戸などの諸藩でも独自の改革が行われた。改革に成功した薩長などの西南の諸藩は雄藩として、幕末の政局に重要な位置を占めるようになった。
第三節
化政文化
化政文化: 文化・文政時代を中心とする江戸時代後期の文化は、江戸の繁栄を背景に、都市に生活する人々の活力に支えられて広まっていった。江戸は上方とならぶ全国経済の中心地に発展し、多数の都市民を対象とする町人文化が最盛期を迎えた。この時代の文化は化政文化と呼ばれるが、都市の繁栄、商人・文人の全国的な交流、出版・教育の普及、寺社参詣の流行などによって中央の文化は各地に伝えられ、また都市生活の多様化で文化の内容も多種多様のものとなっていった。
一方、学問・思想の分野では幕藩体制の動揺という現実を直視するところから、これをどのように克服すべきかという批判的な意見が起こり、古い体制から脱しようという動きになってあらわれてきた。
化政文学: 江戸時代後期の文学は政治や社会の出来事が題材とされ、出版物や貸本屋の普及もあって、広く民衆のものとなった。
小説では、浮世草子の衰えたあと、挿絵で読者をひきつける草双紙や、江戸の遊里を描く洒落本が流行した。また、黄表紙と呼ばれる風刺のきいた絵入りの小説も大いに売り出された。洒落本や黄表紙は寛政の改革で厳しく取締られ、代表作家である山東京伝(1761~1816)が処罰された。また文化期には滑稽さや笑いをもとに、庶民の軽妙な生活を生き生きと描いた滑稽本が盛んになり、式亭三馬(1776~1882)や十返舎一九(1765~1831)が現れた。
また、庶民生活を描いた人情本も庶民に受け入れられ、恋愛ものを扱った為永春水(1790~1843)は天保の改革で処罰された。これらの絵入りの本の系統に対し、読本は文章主体の小説で歴史や伝説を素材にした。上田秋成(1734~1809)がでたあと滝沢馬琴(1767~1848)は評判を博した。馬琴の『南総里見八犬伝』は豊かな構想を持ち、その底流に勧善懲悪・因果応報の思想が流れている。
俳諧では、18世紀後半、京都の与謝蕪村(1716~1783)が絵画にそのまま描けるような句を詠み、化政期には信濃の小林一茶(1763~1827)が農村の生活感情を詠んで、庶民である自分の主体を強く打ち出した。また柄井川柳(1718~1790)らを選者とする川柳や、大田南畝(1749~1823)・石川雅望(1753~1830)を代表的作者とする狂歌が盛んに作られ、為政者を風刺したり、世相を皮肉るものも少なくなかった。
演劇では、18世紀前半に竹田出雲(1691~1756)が出て、優れた浄瑠璃作品を残し、天明のころには近松半二(1725~1783)が出た。
国学の発達: 元禄時代に始まった古典の研究は、18世紀前半になると、『古事記』や『日本書紀』などの歴史書の研究へと進んでいき、日本古来の道を説く国学に発達した。
荷田春満(1669~1736)や門人の賀茂真淵(1697~1769)は日本古代の思想を追求し、洋学はもとより、儒教・仏教の外来思想をも排した。本居宣長(1730~1801)は国学という学問を思想的にも高めて『古事記伝』を著述し、日本古来の精神に帰ることを主張した。儒学が古くからの教理を抜け出ることができなかったのに対して、国学は新しい学問であるだけに、自由な研究も行われ、批判精神も強かった。
宣長の影響を受けた平田篤胤(1776~1843)は、日本古来の純粋な信仰を尊ぶ復古神道をひらき、儒教や仏教を強く排斥した。
洋学の発達: 鎖国下にあることから洋学の学術・知識の吸収や研究は、困難であったが、西川如見(1648~1724)や新井白石が世界の地理・物産・民俗などを説いてその先駆けとなった。ついで将軍吉宗は、漢訳洋書の輸入制限を緩めるとともに、青木昆陽(1698~1769)・野呂元丈(1693~1761)らにオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学として発達した。
いち早く取り入れられたのは、実用の学問としての医学で、1774年前野良沢(1723~1803)や杉田玄白(1733~1817)らが西洋医学の解剖書を訳述した『解体新書』は、その画期的な成果であった。続いて大槻玄沢(1757~1827)や宇田川玄随(1755~1797)が出て、蘭学は各分野でいっそう隆盛を見せ、玄沢の門人稲村三伯(1758~1811)は蘭日辞書である『ハルマ和解』を作った。そのほか平賀源内(1729~1779)は長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた。
幕府も18世紀半ばに天文方において、天文・測地のほか、洋書の翻訳を始めた。天文では18世紀末に天文方の高橋至時(1764~1804)に寛政暦を作らせた。測地では18世紀末から19世紀初めにかけて伊能忠敬(1745~1818)に全国の沿岸を実測させ、『大日本沿海輿地全図』を作成させた。翻訳ではとくに蛮書和解御用という一局を設け、洋書の翻訳にあたらせた。このような動き中で、民間でも蘭学研究への関心が高まり、19世紀前半には、オランダ商館医であったドイツ人シーボルトが長崎郊外に診療所と鳴滝塾をひらき、緒方洪庵(1810~1863)は大坂に適塾を開いて多くの人材を育成し、のちの西洋文化吸収の土台を作った。
儒学と教育: 幕府は儒学による武士の教育を奨励したが、18世紀後半には古学派や諸学折衷の立場をとる折衷学派、さらにはその中から生まれた実証的な考証学派が盛んになった。この情勢の中で、幕府は現実を肯定する朱子学を重んじ、寛政の改革では朱子学を正学とし、さらに官立の昌平坂学問所を設けた。また18世紀末以降、多くの藩でも藩士子弟の教育のために藩学(藩校)が設立されるようになった。藩学は、はじめ朱子学を主とする儒学の講義や武術を授けるものがほとんどであったが、のちには洋学や国学も取り入れられ、年齢や学力に応じた学級制も行われた。そして城下町を離れた土地にも、藩の援助を受けて藩士や民衆の教育を目指す郷学(郷校)が作られるようになった。
民間でも、武士・学者・町人によって私塾が開かれ、儒学や国学・洋学などが講義させた。なかでも大坂の懐徳堂は、18世紀初めに大坂町人の出資で設立され、中井竹山(1730~1806)を学頭として朱子学や陽明学を町人に授け、富永仲基(1715~1746)らの異色の学者を生んだ。19世紀に設立された豊後日田の咸宜園や萩の松下村塾も、幕末の思想家や志士を多く育てた。
庶民の初等教育機関である寺子屋はおびただしい数に昇り、村役人・神職・僧侶・町人などによって経営され、読み・書き・算盤などの日常生活に役立つ教育を行い、道徳も教えた。女子の心得を説く書物なども出版され、女子の教育も進められた。また京都の石田梅岩(1685~1744)は心学を起こし、儒教道徳に仏教や神道の教えを加味した生活倫理をやさしく説き、弟子の手島堵庵(1718~1786)・中沢道二(1725~1803)らによって全国に広められた。
これらの庶民教育は、出版の盛行もあって、都市を中心に農村にも広まり、封建社会のもとでは世界でも珍しいほど初等教育が普及した。
政治・社会思想の発達: 幕藩体制の動揺と社会の変化は、思想面にも新たな展開をもたらした。すでに17世紀後半から18世紀初めにかけて、熊沢蕃山・荻生徂徠・太宰春台らの儒学者らによって封建制を維持するための方策がいろいろ説かれていたが、18世紀半ばからはむしろ封建社会を批判し、それを改めようとする意見が現われてきた。とくに、八戸の医者安藤昌益は『自然真営道』を著わして、万人がみずから耕作して生活する自然の世を理想とし、武士が農民から収奪する社会や身分社会を否定し、封建制を批判した。
19世紀にはいり、都市や農民の実情に触れている人々の中で、封建制の維持または改良を説く現実的な経世思想が活発になった。本多利明(1744~1821)は西洋諸国との交易による富国策を説き、佐藤信淵(1768~1850)は産業の国営化と貿易の振興とを主張した。
儒学の中にある尊王思想は、天皇を王者として尊ぶという思想で、水戸学などで主張されたが、これはあくまで観念的なものにとどまっていた。18世紀半ばに竹内式部(1712~1767)は京都で公家たちに尊王論を説いて追放刑となり(宝暦事件)、さらに山県大弐(1725~1767)は江戸で尊王論を説き、幕政の腐敗を攻撃したので死刑に処せられた(明和事件)。しかし、一般に尊王論は幕府を否定するものではなく、朝廷を尊ぶことによって幕府の権威を守ろうとするものが多かった。
復古主義の立場から尊王論を唱えた国学者も、将軍は天皇の委任によって政権をあずかっているとのとらえ方で、幕府政治の否定を目指すものではなかった。しかし、平田篤胤の復古神道は、各地の豪農・神職に浸透し、幕末期には内外の危機感の中で、尊王攘夷論に影響を与え、現実の政治運動との結びつきを強めていった。
化政美術: 絵画は、庶民に広く親しまれた浮世絵が中心で、18世紀半ばに出た鈴木春信(1725~1770)は錦絵と呼ばれる多色刷の浮世絵版画を創作し、浮世絵の黄金時代の幕を開いた。寛政ごろには、多くの美人画を描いた喜多川歌麿(1753~1806)、個性豊かに役者絵・相撲絵を描いた東洲斎写楽らが、大首絵の手法を駆使して次々に優れた作品を生み、民衆に喜ばれた。天保ごろには錦絵の風景画が流行し、葛飾北斎(1760~1849)・歌川広重(1797~1858)らの錦絵は、民衆の旅への関心と結びついて歓迎された。これらの浮世絵はヨーロッパの印象派の画家たちにも強い影響を与えた。
従来からの絵画では、円山応挙(1733~1795)に始まる円山派が写生を重んじ、遠近法を取り入れた立体感のある作品を描いた。円山派からわかれ、呉春(1752~1811)(松村月渓)がはじめた四条派は、温雅な筆致で風景を描き、上方の豪商らに歓迎された。また明や清の影響を受けた画風も起こり、文人画とも呼ばれて知識階級に好まれた。池大雅(1723~1776)や与謝蕪村がこの画風を大成し、化政期以降の豊後の田能村竹田(1777~1835)、江戸の谷文晁(1763~1840)とその門人渡辺崋山らの出現によって全盛期を迎えた。
西洋画も、南蛮人がもたらしたのち一時途絶えていたが、蘭学の隆盛につれて西洋画の技法が油絵具などとともに長崎を通して伝えられ、日本人による油絵の作品も生まれた。平賀源内・司馬江漢(1748~1818)らはその代表である。また、江漢は源内に学んで銅版画を創始した。
生活と信仰: 江戸を中心に都市文化が開花した。芝居小屋や見世物小屋、講談・落語・曲芸などを演じる寄席があり、銭湯や髪結床も庶民の娯楽場となった。また、寺社は修繕費や経営費を得るために、縁日や開帳などを催し、人々を境内に集めた。伊勢神宮・善光寺などへの寺社参詣も盛んで、多数の民衆が爆発的に伊勢神宮に参詣する御蔭参りも、江戸時代を通じて数回起こり、1830年の場合は約500万人に達したといわれる。また五節句や彼岸会・盂蘭盆などの行事、日待・月待や庚申講などの集まりのほか、町や農村を訪れる猿廻しや漫才は人々にとって楽しみでもあった。
練習問題
次の質問に答えなさい。
1、8代将軍徳川吉宗は、幕府の財政を立て直すためにどん
なことをしましたか。
2、幕府が行った享保・寛政・天保の改革の中で成功したも
のがありますか。
3、18世紀の中期以後には特にたびたび百姓一揆が起こっ
たのはなぜですか。
4、18世紀の後半になると、文化の中心は関西から江戸に
移りましたか。
5、与謝蕪村はどのような句を作りましたか。
6、国学や洋学は、幕府の学問である儒学に対してどのよう
な立場をとりましたか。
7、「古事記伝」という「古事記」の注釈書を書いた国学者
は何という人ですか。
8、前野良沢と杉田玄白が翻訳したオランダの解剖学の本は
何と言いますか。
9、伊能忠敬は日本全国地図をどのように作りましたか。
10、18世紀の終わりに諸外国が日本との通商を要求した時、
幕府はどんなことをしましたか。
次の( )に当て嵌まる語句や数字を書き入れなさい。
1、( )の改革……( )世紀前半:新田の開発、倹
約令
2、( )の改革……( )世紀終わり:学問・武芸の
訓練、倹約令
3、( )の改革……( )世紀前半:株仲間の禁止、
倹約令
課題研究
1、19世紀を迎えて、幕藩体制の中で近代への動きはどの
ような形であらわれてきたか。
2、江戸時代の地方での教育について、地域の藩校・私塾・
寺子屋などの教育機関から考えてみよう。
3、江戸時代の地域の産業経済の発展について、生産物の変
化、交